05
 常習的に飲酒するようになったのはいつからだっただろうか。二十歳を迎えたばかりの頃はまだ学生でよくまわりから誘われて飲むことはあった。でもそれは別にお酒が好きになったからではなく、何となく誰かと他愛ない会話を楽しみながらのあの雰囲気が心地よかったからだ。そんな自分がまさかひとり、家でお酒を飲むようになるとは微塵も思っていなかった。
 ワークトップに並べたグラスに氷とリキュール、それから炭酸水を注いで軽く混ぜ合わせるとカラカラと氷が音を鳴らしながら液体が緩やかにまわっていく。それはまるでわたしをくるくると絡めとろうと動いているように見えて不鮮明な不安が胸にのさばった。

「ほんと好きだね、それ」
「っ!……真人さん、こういうのやめてくださいよ」
「こういうのって?」

 分かっているくせに。ついさっきまで映画へと向けられていた彼の興味はいつの間にかこちらに移ったらしい。後ろから抱き竦められているせいで彼が今どんな表情をしているか窺い知ることは叶わないが、その愉しげな声色が全てを物語っていた。
 わたしの反応がよっぽどお気に召したのかあの日から彼は事あるごとに触れてくるようになった。いくら慣れたといってもわたしは彼を好ましいとは思っていない。けれど、どんなに抵抗しようともこの体格さだ。純粋な力で敵う筈もなくわたしが何を言おうとどう行動しようとも全ては彼の気分次第で決まるのだから、気の済むまで好きにさせるしかない。この奇妙な生活を送るようになってそんなことは嫌という程痛感していた。
 それでも今みたいに音もなくいきなり来られるのだけはどうにも慣れない。無意味な心の揺さぶりに不快とまではいかない気持ちが溜息となって漏れそうになるが、最早それすらも無駄に思えてわたしは彼の問いかけをわざと無視した。

「別に好きな訳じゃないけどつい手が伸びちゃうんですよ」
「じゃあこっちは?しょっちゅう吸ってるやつ。煙草っていうんだっけ」
「それも好きではないですね」
「ハァ?こんなのいくら摂取してもメリットなんかないのに、その上好きでもないとか頭おかしいんじゃない?」
「そういう真人さんだってお酒、毎回一口頂戴とか言って全部飲んじゃうじゃないですか」
「だって横取りしたときの名前の顔が面白いんだもん」

 あくまでわたしの反応を愉しむ為かのように言っているが、彼がそれを初めて口にしたとき、何これしゅわしゅわする!と目を輝かせた場面に居合わせているだけにそれだけが理由ではないことは明白だった。真人さんはお酒がというよりも炭酸が気に入ったんだろうけど。

「ということで、はい。こっちは真人さんの分です」

 軽くグラスを持ち上げて見せる。どうせ今日も殆ど飲まれてしまうのならもう初めから彼の分も作ってしまおう。そんな風に思っての行動だった。
 わたしを拘束していた腕が緩んだところでグラスを渡そうと後ろを振り返るとぽかんとこちらを見つめる彼と目が合った。何をそんなに驚いているのだろう。どうぞ、とグラスを差し出してみるも彼は一向に動こうとしなかった。

「真人さん?」
「……名前ってやっぱり馬鹿だね」

 返ってきた言葉はわたしを嘲弄するものだったが何処か不思議な響きをしていて、わたしには違う意味合いに聞こえた。けれど彼が何を思って口にしたものなのかまでは分からなかった。
 何処かぎこちなく受け取ったグラスをまじまじと見つめる彼はもしかしたら本当に炭酸が好きな訳じゃなくて、わたしから奪ったときの反応が見たいだけだったのかもしれない。それならわたしの行動は彼の企みを潰してしまうものだったのだろう。かといって新しく作り直す手間は省きたかったのだから仕方ない。

「無理に飲まなくてもいいですよ、いらなかったらここに置いといてください」

 彼に背を向けながら換気扇のスイッチを入れると後ろで何かを呟いたような気配がしたが、機械的な風の音に紛れてしまってわたしの耳には届かなかった。
 グラスを傾けて流し込むとその先で小さく熱を帯びる。ワークトップにグラスを置いて換気扇に向かって紫煙を燻らせると肺が煙で一杯になる。熱と煙はほんの少しだけわたしを満たすと次の瞬間には跡形もなく消え失せて、後には苦みと喪失感だけが残った。これがあるからわたしはどちらも好きにはなれない。煙草に関しては子供の頃両親が吸う度に嫌な顔をしていたというのに今では吸うことが習慣化しているのだから笑ってしまう。真人さんの言うように自分でも馬鹿だなと思う。それでも喪失感が埋まるような錯覚を好きなタイミングで手軽に得られるのがどうにも心地よくて、負のループを永遠と繰り返す行為だと分かっていても、気付いたときにはもうどうにもできないくらいそれらはわたしの内側を侵食していた。
 何度目かの紫煙を吐き出しながらワークトップに置かれたグラスに触れようとするも、それは何かに掠め取られて指先が空を切った。

「俺の分を用意すれば盗られないとでも思った?」

 やっぱり好きなんじゃないか炭酸。わたしの横で両手にグラスを抱えて笑う彼は随分と機嫌が良さそうだった。結局いつものように作り直す羽目になった腹いせに煙を吹きかけてやろうかとも思ったが、彼があまりにも嬉しそうにするものだから、フィルターぎりぎりのそれを吸い込んで吐き出した溜息混じりの紫煙は換気扇の中へと消えていった。