04
「名前ってさ、変な人間だよね」
「何ですか突然」

 何の前触れもないその言葉にパソコンのキーボードを叩いていた手が止まる。真意を図り兼ねて後ろを振り返るも、真人さんの視線は手元の本へ落としたままで何も読み取れなかった。

「君のこと、危機感の足らない平和ボケした馬鹿な人間だと思ってたんだよね。呪霊を自ら家に招き入れるくらいだし」

 そう言って彼はベッドに仰向けに寝転んで手枕をしながら、片手で器用にページを捲った。
 酷い言われようだが、実際その通りなのでぐうの音も出ない。酒は飲むとも飲まるるな、今の自分に相応しい戒めの言葉だなと痛感するわたしを余所に、真人さんは言葉を続けた。

「だからこの状況下から逃げようともしないのかと思ったけど、俺に対して警戒心がない訳じゃないよね。ねぇ、何でそんな平然としてられるの?」
「何でって……、これが普通だと思いますけど」
「呪術師でもない人間が、たった数日で呪霊と過ごすことに慣れるのが普通、ねぇ」

 どこか腑に落ちないような顔をする真人さんに首を傾げる。外部からの刺激がポジティブなものであれネガティブなものであれ、過剰に受け続ければ心身は疲弊する。それを回避する為に平常心を保とうとすることは、そんなに不思議なことだろうか。

「あ、真人さんはホメオスタシスって知ってますか?」
「生物の身体が環境の変化に適応して、生体内の環境を一定に維持しようとする調節機能のことだろ」
「はい、それと同じです」

 汗をかいたら外気温の変化に伴って上昇する体温を下げるように、喉が渇けば適切な水分量を維持する為に給水を促すように。その働きはいずれも自然に備わっているものだ。
 真人さんは“それら”もとい呪霊は、人間から流れ出た負の感情が具現化した人に害をなす異形の存在だと言った。わたしが見てきた呪霊とは格が違う彼は、花を手折るようにきっと何の躊躇もなく人を傷付けることができるのだろう。そんな彼がわたしに危害を加えようとしないのは、彼と結んだ縛りがそれだけ絶対的な誓約なのだということを証明していた。
 だとすれば、わたしなんかがどうこうできる次元の話ではなくて、抗おうとするだけ無駄なことだ。ならわたしにできることはもう決まり切っている。

「受け入れて、あとは慣れるだけです」
「理屈ではそうでも、感情に振り回される人間がそう易々と克服できるものじゃないでしょ。普通はもっと動揺したり恐れたりするものだよ」

 そんな不満げに言われてもなぁと思わず苦笑する。確かにわたしは真人さんが言うように真人さんのことを別段恐いとは思わなくなった。勿論縛りがあるからというのも要因のひとつではあるが、彼以外の呪霊に対してもわたしは同様の気持ちを持つようになった。でもそれは決して、恐くないという意味ではない。

「だって呪霊も人も、同じじゃないですか」
「はぁー?どこが?」
「簡単に人を傷付けてしまえるところ」

 呪霊が人を傷付けるのと同じように、人だって人を容易く傷付けることができることをわたしは知っている。きっとそこに本質的な違いなんてない。人間も呪霊も等しく恐い、ただそれだけのことなのだ。

「だから呪霊という理由で、真人さんのことを特別恐いって思わないだけです」
「……へぇ、なるほどね」

 本から外れた瞳がじっと吟味するようにわたしを見据えた。何だか自分の内側を覗き見られているような気分になって、ずっと同じ体勢で強張った首を言い訳にパソコンへと向き直る。それでも背中には未だ視線を感じて居心地が悪かった。

「その辺が魂が割けてることと関係あるのかな」
「え?何か言いました?」
「名前はやっぱり変な人間だねって言ったんだよ」

 これだけ話しても結局そうなるのかと脱力する。ただ最初の言葉とは少し聞こえ方が違うような気がして、少なくともそれは悪い意味ではないんじゃないかな、なんて都合よく解釈した。
 そんなことを考えていると、いきなり後ろから腕が伸びてきて浮遊感に襲われる。驚いている間に、気付けばベッドに腰掛けた真人さんの膝に向かい合うように座らされていた。あの体勢からどうやってとか、不自然に腕が伸びていたようなとか、混乱するわたしを真人さんはにんまり、と笑って見つめていた。その様子に無意識に腰が引けてしまう。

「それ以上後ろにいくと落ちるよ」

 腰に回された手にぐっと力が込められる。真人さんとの距離が縮まって、顔に熱が集まるのが分かった。

「あれ?もしかして照れてる?」
「、別に照れてません!」
「ははッ、嘘が下手。こっちの方が名前には効果的なんだね、覚えておくよ」

 その調子でもっと俺のこと楽しませてよね、と囁かれて鳴った胸の音は悪い方の意味でなのだと信じたい。