夏油を説得する



 最後の呪霊を祓い終えて垂れてくる瞼を擦りながら溜息をつく。あまり強い呪霊ではなかったが今日は立て続けに任務を割り当てられ、それなりに呪力を消費していた。
 覚悟はしてたけど呪術師がここまで忙しいなんて思わなかった。祓っても祓ってもキリがない呪霊は今こうしている間にも人間に牙を向いているのだろう。けれどそれは仕方のないことだと、最近思うようになった。これは外から来た人間にしか気付けないような根深いものだから。日本に来てからずっと感じている寂寥感の理由が色々な人と関わっていくうちにわたしの中ではっきりしてきていた。だから傑もきっと――

「名前何処か怪我でもしたのかい?」
「あ、ううん大丈夫。ちょっと眠たいだけ」
「良かった、話しかけても反応がないから心配したよ」

 考え事をしている間に傑も祓い終わったらしい。お互いにお疲れさまと言い合ったものの、わたしよりも多く呪霊の相手をした彼からはあまり疲労の色は窺い知れなかった。

「ねぇ傑、日本って呪霊の数多いよね」
「名前がいたところと比べて?」
「うん、向こうにいたときはこんなにたくさんの呪霊見たことないよ」
「そうか……」

 神妙な面持ちで細めた瞳は暗澹としていた。わたしが感じている寂寥感はこれだ。わたしが向こうで日常的に当然のように享受し、与えていた人と人との温もりや愛がここでは滅多に感じられない。どこか閉鎖的で距離が悲しいくらい遠い。そうして心がどんどん麻痺して愛に疎くなっていけば、自分にも他人にも優しくできなくなる。それは巡り巡って自分へと返ってきて永遠に負の連鎖が終わらない。それが今こうして大量の呪霊として形を成しているのだろう、わたしの中ではそういう結論に至った。
 誰が悪い訳でもない。誰のせいでもない。だから根本から正すなんてこともわたしにはできない。堪らなくなって抱き着くと彼は小さく身体を震わせながらも受け止めてくれた。

「おっと、名前そんなに眠いなら、」
「ハグされるとさ、心が落ち着かない?」
「え、まぁそうだね」
「ハグはストレスを解消する効果があるんだって。抱き締められると、全てを受け入れてくれるみたいで安心するでしょ?ビズも感覚的には同じだけど多分難しいだろうから、」
「……」
「だから日本でもハグは取り入れたらいいのにって思う。そうしたら見えない緊張の糸も少し緩んで、気持ちが楽になる場面が増えて追い詰められた気分も減るかもしれない」
「……どうしてそんな話を私にするんだい?」
「何となくだよ」
「隠すなよ、予知夢を見たんだろ」

 それは確信している口調で、まるで夢の内容を知っているかのように嫌に静かで低い声だった。
 傑の言う通りわたしは予知夢を見た。夢の中の傑は広くて仄暗い空間にたったひとりで佇んでいた。俯いていて表情までは分からなかったが、場面が切り替わる毎に痛ましい程やつれていく傑はとても見ていられなかった。制服を着ていたときもあったから、恐らくそう遠くない未来の傑なんだろう。でも例え夢を見ていなくてもわたしは何となくそうなってしまうかもしれない予感がしていた。
 傑はきっと完璧主義なのだ。自分の中に高い理想や目標を掲げていて、その為ならどんな努力もストイックに続けられる。だから大抵のことは何でもこなしてしまうんだろう。完璧主義は決して悪いことではない、けれどそれはストレスや妥協との駆け引きが上手くなければ成り立たないものだ。何事も行き過ぎれば途端に心も身体も蝕まれてしまう。真面目で正義感が強いせいで、愚痴や弱音を吐くことがまるで悪のように我慢を強いて他人に弱みを見せようとしない。悟と違って不器用さが分かりづらい人間なのだと、そんな気がしていた。だからこそ、目が覚めたときは怒りに似た激しい感傷が鋭く胸を過ぎった。

「傑はもっと我儘になっていいと思う」

 優しくない世界で自分にも優しくできない。そして呪術師として生きる以上一般人より多くの苦痛や哀惜と強い絆で結ばれてしまう。それをたったひとりで抱え込める訳ない、そんなの崩壊するに決まってる。まだこうして呪術師になったばかりのわたしでもその重圧がどれ程のものかひしひしと伝わってくる。それでも今わたしがこの話をしなければ、きっと傑は自身の苦悩をひた隠しにしたまま最悪の形で破壊的な結果を選び取っていたに違いない。

「話してみようよ、傑の気持ち」
「話したところで何も変わらないことだったとしてもか?」
「まだ話してすらないのに何で諦めちゃうの?」

 本当にどこまで寂しいことを言うのだろう。薄い膜がこれ以上広がらないように目の奥に力を入れる。瞳の中で渦巻いていた黒がぴたり、と止まった。

「傑が言うように何も変わらないかもしれないし、欲しい答えが返ってこないかもしれない。予知夢は見たけどまだ全然傑の気持ちは分からないよ。わたしは傑じゃないから分からないことが普通なの。だからちょっとでも分かろう、分かってもらおうとする努力は諦めないで」

 自分に正直に自分勝手に相手にぶつけたらいい。もし意見が食い違ったら納得いくまで話し合えばいい。諦めるのはそれからでも遅くないんだから。

「この際はっきり言うけど今の傑かっこ悪い。わたしはそういう努力ができない人好きじゃないからもしそれでも諦めちゃうなら、傑のことちょっと嫌いになっちゃうかもよ」

 どうする?と首を傾げる。傑は少なからずわたしに異性としての好意を持っていることは知っていた。我ながら狡いことをしているなとは思うが、それで傑の気持ちを動かせるのならわたしはいくらでも利用する。傑だけじゃない、悟や硝子の為ならわたしはできることは何だってしたいと、高専で四人で過ごしていく内にそう思うようになっていた。
 わたしの言ったことが意外だったのか、僅かに目を見開いてから、傑は声を出して笑った。

「それは、困るね」

 そう言ってわたしを見つめる瞳はいつもの濡羽色に戻っていたから、同じように笑い返して見せた。帰ったら話すんだよ、と念を押して頷くのを確認してから、身体を離して携帯を見ると呪霊を祓い終わってから結構時間が経っていた。

「お腹空いちゃった、何か食べてから帰ろっ」
「そうしようか」
「わたしあれ食べたい!おひつごはん!」
「好きだねそれ。この間も食べに行かなかった?」
「だって美味しいんだもん」

 向こうで海鮮なんて食べて来なかったし炊き立てのお米は本当に美味しいことを最近実感している。素材の味わいをそのまま愉しむ、具材に合わせた香味を入れて愉しむ、昆布と鰹節のコク深い特製白だしを注いでだし茶漬けにして愉しむ。一度に三度も愉しめるなんて最高じゃん。そう熱弁するとはいはい分かったよ、と傑は可笑しそうに笑った。