彼女の描く小宇宙は深海のようにひっそりとけれど雄大である。

 僕は、こんなにも鮮やかな青を知らない。否、そもそも青にこんなにも種類があったことさえも知らなかった。その絵に出逢うまでは。
 絵は油彩である。黒がベースとなっていて、その上に沢山の青が散っている。青は夕闇迫った空の色から、南国の海の色まであり、それぞれか不規則に、時に淡いコントラストを描いている。
 それはあたかも深海のようであり、また小宇宙のようでもある。

「キプリスって云うの」

 放課後の職員玄関に訪れる生徒はほとんどいない。僕だって、ゴミ捨て当番でなければこんな所通りもしない。校舎の隅に焼却炉の残骸があって、放課後の掃除になると、僕らは決まってその場所にゴミを捨てに行かなくてはならない。もちろん、僕はゴミのその後を知らないし興味もない。
 空になった鉄のゴミ箱(けばけばしい青いペンキが塗られ、さらには錆び付いている、陰鬱なゴミ箱だ)を片手に、職員玄関の、上がり口に立ったまま僕は動けないでいた。

「え?」

 唐突に声をかけられ、ふりかえるとそこに彼女がいた。彼女の手には、緑色に塗られたゴミ箱があった。

「だから、その絵のタイトル」
「え、この絵の?」
「そう。キプリス」

 そう云った彼女はどこか得意気であったけれど、決していやらしくなどなかった。職員玄関に額縁入りで飾られたことを鼻にかけるふうでなく、純粋に、この絵を愛しているからこその発言だったからなのかもしれない。この油彩の創造主は彼女なのだから。

「もっと、違うタイトルかと思った」
「うん、たとえば?」
「僕はこういうのは疎いんだけど――コスモ、とか、深海、とか」

 ありきたりだろう、僕は美術とか苦手なんだ。そう云った言葉に彼女は返事をすることなく、ただひたすらに自らの手で生み出した油彩を眺めていた。ひょっとしたら、怒らせてしまったのかもしれない。彼女は悪魔薬学はてんで駄目だけれど、美術の成績は素晴らしいから。

「ねえ、奥村くん」

 けれど、違った。
 彼女は僕の心配をよそに、はずんだ声で僕に話しかけてくる。「何?」ごく自然体を装おって彼女を見れば、大きな瞳をキラキラさせて僕を見つめ返してくる。長いまつげがくるんと上向きになっていて、にっこりと微笑む顔がとてもかわいかった。

「キプリスって、何か知ってる?」

 そう云って、僕が返事するよりも先にくつくつと喉を鳴らした。それから、知らないよね、と呟く。
 知らない、知るわけない。いったいキプリスとは何だろうか。僕が知っていることと云えば、せいぜい悪魔の名前と数式くらいだ。

「奥村くんのことだよ」
「――は?」
「だから、奥村くん」

 そう云って、彼女はうっとりとした表情で油彩を見た。
 もともと彼女はマイペースで、少々気まぐれで、それから独特の世界観がある。きっと今回も、彼女の気まぐれに違いない。違いないが、どうして僕の胸はこんなにも忙しなく動くのだろう。心なしか、頬の辺りも熱い。

「じゃあ、この絵は――」

――僕がモデル?

「まさか賞もらうとは思わなかった。これも、奥村くんがかっこいいからだよね」
「な、何云うんだよ。それにこの絵、僕って云うよりは兄さんっていう感じがするよ」

 確かに僕らは友人だけど、兄さんと彼女は親友なのだ。そうして、兄さんの正体を知っている彼女だからこそ、この油彩の本当のモデルは僕などではなく兄さんなのではないか――。すると、今度こそ彼女は怒った。幼子のように頬をふくらませ、それから、奥村くんだよとよくわからない意地をはる。

「おい!」

 僕らしかいないはずの廊下に、唐突に響いたのは兄さんの声だった。そうして大きな足音をたてて近づくと、彼女の膨らんだ頬を両手で潰した。

「おまえが帰ってこなかったせーで俺がえらいめにあったんだからな! 覚悟しとけよ!」
「燐のいじわるー」
「バカ、人聞きのわりーこと云うんじゃねえ!」

 おまえのせいだ、わたしのせいじゃない。二人揃えば塾の時間のように賑やかで、やんややんやと云い合う二人は微笑ましいはずだというのに心の奥底がしくしく痛むんだ。
(そうして僕は、この気持ちを何と呼ぶか知らないほど子供じゃない)

「じゃあまたあとでね、奥村くん」

 相変わらず頬を膨らませたまま、彼女はくるりと背を向ける。その小さな背中を追うように、兄さんは一歩足を踏み出すと、それからふりかえった。そうして小さな声で、云ったんだ。

「この絵、雪男がモデルなんだってな」
「……らしいね。今直接聞いたよ」
「なあ、キプリスって意味知ってるか?」

 知らないと黙りこむ僕に兄さんはさらにニヤニヤと笑みを浮かべながら云った。

「世界一美しい蝶の名前だってさ」

 じゃあなと背を向けてくれてよかった。こんなふうに動揺する僕の顔を、今は誰にも見られたくなかったから。頭の中を二人の声がぐるぐると巡る。思い出しただけで鼓動は高鳴り心臓が苦しくなって頬が熱くなる。こんな僕を僕は知らなくて、けれどこの感情の名前は知っている。

 一度だけ、彼女がキプリスを描いている姿を見たことがある。裏庭にクラスメイト達と並んでカンバスに向かっていた。大きな瞳は真剣で、白く少しふっくらとした指先は青く染まり、一心に何かを描いていた。こんなにも美しい油彩を描く彼女の瞳にこの世界はどんなふうに映っているのだろうと思ったんだ。

(この距離か埋まるのはあと僅かなのかもしれない)



すこしの距離ときみの笑い声


thank...エル様
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