人のする呼吸が嫌いだ。
 人の吐く言葉が嫌いだ。
 人のする行為が嫌いだ。
 人の住む世界が嫌いだ。
 人の生きる世が嫌いだ。
 人の存在するのが嫌だ。

 嗚呼、人の世は、汚れている。


  *  *  *


 そろそろ日も落ちようかという時分の事だった。図書館には窓から西日が差し込み、辺りは一面茜色に染まっていた。
 しかし、そのようなことにも影響をうけないような席を、芥川龍之介は陣取っていた。時計もなく、人気もないそんな場所で、彼は一人課題を片付けていた。
 どれ程やっていただろうか、課題が一段落したところで持っていた時計を開くと、思っていたよりも時間は過ぎていた。この分では外はすっかり暗くなっているだろうと考え、帰ろうと席を立とうと腰をあげる。すると、長時間そのままの体勢でいたためか、体の節々が悲鳴をあげだ。
 一人その痛みに悲鳴をあげていると、課題のために使っていた資料の向こう側に、人がいるのが見えた。
 課題に集中していたためか気がつかなかったが、いつの間にかそこへ来ていたようであった。
 机は広く、その人が座っているのは斜向かいなのでそこまで迷惑はかかっていないだろうが、資料を広く散らかしてしまっていた事に妙な罪悪感に襲われ、芥川は急いで資料を片付けにかかった。
 ふと、その人が視界に映る。
 その人は、墨を流したような長い髪に、切れ長の鋭い紅玉の瞳を持った青年であった。男の人に対して失礼な表現だとは思わないでもないが、粛々とした雰囲気を持った、美しい人だと思った。

「…何か御用でも?」

 その人が言った。その瞳がこちらを見た瞬間、胸が高鳴ったような気がした。心地よい低音が柔らかく耳に響く。
 どうやら、長い間見ていたらしかった。その人が若干眉を寄せているのが見てとれた。

「いや、用はない。不躾に見てしまいすまなかった」

 その人は、そうか、というと咎めるでもなくやっていた課題を片付けにかかった。
 あっけらかんとした態度と直ぐに終わってしまった会話に、向こうはこちらに欠片も興味などなかったのだ、と思うと妙に関心を持ってしまったことが少しばかり悔しかった。
 それと同時に、こちらに向けられていたその紅玉が向けられなくなってしまったことに僅かながらの淋しさを感じたが、そういえば帰らなくてはならなかったのだということを思いだし、早急に資料の片付けを再開した。


  *  *  *


 片付けが終わる頃には、殆ど太陽は沈んでしまっていた。彼の人も、芥川が資料を片付けている間に片付けをすませ、帰っていってしまった。資料は思ったより片付かず、手間取っていたのだ。そうして帰る道は暗く、人気も少なくなってしまった。
 暗く、風の肌寒さと薄闇に恐怖を感じ芥川は身を縮めた。春の夕暮れ時の風は薄着でいる彼には少しばかりきついものがある。
 その歩みは、自然と早足になっていった。
 垣の見えるところまで来たところで、門の辺りに人影があるのが見えた。
 このような時間に、このような場所に、一体誰が居るのだと訝しく思ったが、それは、それが誰だかわかれば明白であった。
 その人がわかると、芥川は小走りになって駆け寄っていった。不機嫌面と定評のある顏が弛んでいるだろう事が、鏡を見なくてもわかるくらいに笑顔が溢れた。
 その人と言うのは、芥川が世話になっている家の家主である、夏目漱石だった。

「遅くなってしまい、すみません」

「全く、あまりにも帰りが遅いので心配していたのですよ」

 芥川が言えば、夏目は柔らかく笑んで、その頭をくしゃりと撫でながらそう応えた。その際になぜだか芥川がびくりと震えたので、夏目はそれの理由を訊いた。
 すれば、芥川はおずおずと怒っていませんか、と言った。

「貴方は、わたしに怒られたいのですか?」
「…、遅くなってしまったので、怒っているのではと」

「そのようなことはありませんよ。ほら、冷えてしまっている。早く中へ入りましょう」

 さあ、と言うその声が優しく、本当に怒っていないのだとわかると、芥川は、はい、と頷いて夏目と中へ入っていった。
 澄みわたった雲一つない空に星はなく、その代わりに綺麗な月が輝いていた。



10/11/19
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