悪魔の手

 修道院の朝は早い。日の出の前に起き、日が沈む数時間後には床につく。それはこの地方で一番小さな修道院であっても同じだった。司祭でさえひとりきり。そして司祭は朝課である詩の朗読を終えると、小さな個室へと向かった。
 司祭は気の良い老人だった。子ども好きで村中の子どもたちから親しまれていた。そう、例え迫害を受けた子どもからでも。
「司祭さま」
 ノックをすると、鈴を転がすような声が返ってきた。そしてパッと扉が開き、少女が満面の笑みを浮かべて立っていた。
 少女は名をシェリーと言った。一年ほど前からこの修道院で暮らしている。身よりもなく、哀しい境遇の娘だった。
「おはよう。賛美歌はちゃんと歌ったかね?」
「はい、もちろんです」
 シェリーは笑顔のまま答えた。司祭もにっこり笑った。
 シェリーは不思議な娘だった。時折思いも寄らぬ場所に現れれたり、見えないものが見えたりした。そのため、周りの者からは気味悪がられていた。二親が流行病でなくなった後は、当然のようにいじめられいた。司祭は不憫に思い、こうしてシェリーを修道院に住まわせることにした。司祭は孫娘ができたように思い、シェリーを可愛がった。
「それでは、朝のお祈りをしよう。おいで……」
 お世辞にもきれいとは言えない小さな礼拝堂で、司祭とシェリーは並んで祈るのが習慣になっていた。特にシェリーは「悪魔の子」と蔑まれた過去を忘れてはおらず、毎日毎日熱心に祈った。
(ああ、どうか神様。私は悪魔の子ではないと証明して下さい。ただのしがない少女であることを、どうか、どうか、お示しください……)
 司祭が「アーメン」と厳かに言った。その時だ。
 ギィィ、と鈍い音がして扉が開いた。まだ夜も明けていないというのに。司祭とシェリーが驚いて振り向くと、そこには黒い影が立っていた。
 心臓が止まるかと思った。そこにはまさに、シェリーの思い描いていた「悪魔」が立っている!
 悪魔は背が高く、全身を真っ黒なローブで覆っていて、顔も見えなかった。シェリーは恐怖のあまり腰が抜けた。司祭は真っ青になり、胸を押さえて呼吸を荒くした。
「君か?」
 悪魔がしゃべった!しかも、シェリーの方に向かって。シェリーは声が出なかった。司祭は頭を床につき、十字架を握りしめぶるぶると震えているだけだ。
 悪魔が進み出た。音もなくシェリーに近づいてくる。逃げようと頭は叫んだが、身体中が震えてどうにもならない。
 悪魔が膝を折って屈み、シェリーの顔を覗き込んだ。恐怖に目を閉じたが、悪魔は何もしてこなかった。どうなっているのか不思議で、シェリーはちょっとだけまぶたを開けてみた。
 そして息を呑んだ。悪魔はとてもハンサムな若い男の姿をしていた。長く伸びた黒髪、真っ白な肌、切れ長の涼しい目、鼻筋もスッと通っている。真っ青だったシェリーの顔は、たちまちのうちに真っ赤になった。しかしすぐに悪魔に見惚れてしまった自分に気づき、何という不道徳なことを、とシェリーは己を恥じた。
「不思議な力を持つ少女というのは、君のことか?」
 至近距離で悪魔が訊いた。嘘はいけない。例え相手が悪魔でも。シェリーは歯をカタカタ言わせながらコクンと頷いた。
「わ、私は……」
 シェリーはありったけの勇気を振り絞って言った。
「私は、あ、悪魔の子ではありません……」
 震えながらも言い切ると、悪魔は目を細めてシェリーを見た。
「どうやら、君たちは誤解をしているようだな。私は悪魔ではないし、君も悪魔ではなかろう」
 悪魔──いえ、悪魔ではない?シェリーは混乱した。すると悪魔……ではないといった謎の男は、シェリーの手を引き立ち上がらせた。
「私は魔法使いだ──そして、君も」
 だから安心しろ、と言わんばかりの語気だった。シェリーは余計訳がわからない。
(──魔法使い?この人が?そして──私が?)
司祭もいつの間にか顔を上げて男の顔を凝視していた。男はシェリーを見下ろした。
「私の名はサラザール。サラザール・スリザリン。君の名は何という?不思議な力を持つ少女よ」
「……シェリー」
「良い名だな。美しい春の風の響きだ」
 サラザールと名乗った男──しかも魔法使いだと言う──に突如名前を誉められ、シェリーの頬一面が熱くなった。
「シェリー。私は君を迎えに来た」
「何を……!魔法使いなどと見え透いた嘘を!シェリーに触れるな、悪魔め!」
 司祭が十字架を握りしめて叫んだ。サラザールは司祭を横目で見た。凍り付いた眼差しだった。
「愚か者のマグルよ。悪魔ではないと言ったであろう。マグルの翁というものは耳も役に立たぬのか。それにしても魔法使いと悪魔の違いさえもわからぬとは、器の浅さが知れようぞ」
「──司祭さまを悪く言わないで!」
  叫ぶと、サラザールはうって変わって慈愛に満ちた瞳でシェリーを見つめた。恐怖も怒りも混乱も渦巻いている胸の中に、まったく違う種類の動悸が走った。
「ほら、それこそが君が魔女である証明だ」
 何を言っているのかわからず、シェリーはあたりを見回した。すると、自分の髪の毛が風もないのにふわふわと広がり、黄金色に輝いているのに気づいた。シェリーが怒った時、よく現れる現象だった。
「私は友人と魔法学校を創設した。そこの生徒を集めている。シェリー、一緒に行こう。君は魔女だ。正しい魔法教育を受け、一人前にならねば」
 サラザールは淡々と言った。シェリーは聴き取った単語をオウム返しに呟いた。
「……魔法、学校?」
「そうだ。君のような不思議な力をもった少年少女が集まる。力のせいで虐げられることも、殺されることもない」
 あまりに夢のような話に、シェリーの瞳は揺れた。
(虐げられない?──もうコソコソ隠れなくていいの?)
「シェリー!信じてはならん!そんな話──」
「黙れ、マグル。老い先短い貴様にこの子を守っていくことができるというのか?この先、ずっと?──それ見たことか、否定できまい。我々は違う。全身全霊をかけ教え、育て、守る」
 サラザールの言葉がシェリーの脳内に鳴り響いた。
「さあ、シェリー。おいで──私とともに、行こう」
 シェリーはもう何も聞こえなかった。司祭の叫ぶ声も、鶏の鳴き声も、何もかも。ただ視界に移るのは、サラザールの差し出した手だけ。
 シェリーの手が骨張った冷たい掌にのると、サラザールの切れ長の眼が細められ、口元には鮮やかな笑みが浮かんだ。ぎゅっと手と手が結ばれると、サラザールが何か呟いた。刹那、風がふたつの影を抱き、司祭は思わず目をつぶった。
 風が止んだその後には、ただ呆然とする司祭がひとり残された。





prev next
Top
bkm



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -