1.穴の中の子犬は吠える

 最悪だ。
 何度でも言おう。
 最悪だ。
 史上最悪の誕生日だ。
 私は涙目で重厚な天井を見上げた。
「最悪……」
 言葉に出してみると、その実感が全身をジワジワと侵食していく。
「何でよりにもよって、こんな日に、こんなところで、こんな目に遭うの……?」
 今日は15歳の誕生日だというのに、私はホグワーツの廊下に作られた深い落とし穴にはまって、全く身動きができない状態にあった。
 今の時間は恐らく消灯の時間をとっくに過ぎている。正確な時間はわからない。何せ、身動きできない状態なのだから。
「誰か、助けてよう……」
 涙のせいで化粧がぐちゃぐちゃだ。気持ち悪い。寮に帰って、暖かい紅茶が飲みたい。
「何で……」
 何で、こんなことになっちゃったんだろう?


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 今日は起きた時からハッピーだった。プリシラやホリーやキャンディス、いつも一緒にいる子たちが朝一番に「誕生日おめでとう!」っと言ってくれて、それを聞いたグリフィンドールの子たちも祝福してくれた。ウキウキしながら食堂の椅子に座ったら、お母さんやお父さん、アーサーやランカスターのおじいちゃんからもプレゼントが届いて朝食の机を埋め尽くした。それだけでも嬉しかったのに、「魔法薬学」の時間、調合が上手にできたってスラグホーン先生に褒められたし、「占い学」のレポートもかなり良い成績で返ってきた。それからプリシラたちが部屋でパーティーをしてくれることになって、そのために厨房でたくさんの屋敷しもべ妖精に囲まれながら大好きなお菓子作りに没頭し、色とりどりのクッキーやブレッド、かぼちゃのプディングや生クリームのショートケーキを作り上げたのだ。
 そう、お菓子作り。今にして思えば、それがいけなかったのだ。
 あんまり熱中し過ぎたせいで、予定の時間を大幅にオーバーしていて、私は焦っていた。たくさんのお菓子を抱えて、ホグワーツにいくつもある近道のうちのひとつを通り抜けようとしたその時に、何やら得体の知れないものを踏んづけた。
「え?」
 気づいた時には地面がなく、私の身長の2倍はある穴に落ちていた。穴の奥には巨大なクモの巣のようなものが張り巡らされてあって、それが私の体を絡め捕った。ぬるぬるしたそれは気持ち悪いことこの上なかったし、ローブもスカートもめくれてとんでもない格好になっていた。
「きゃああああ!!」 
 思わず悲鳴を上げた。しかし、いくら叫んでも喚いてみても、全然人の来る気配がない。結局、喉をカラカラにしただけだった。
「そうよ、杖!」
 やっと自分が魔女であることを思い出して杖を掴もうとしたが、ローブの中にあったはずの杖はクモの糸に絡まって手の届かないところにあった。
「嘘でしょ……」
 私は絶望した。意識が遠退いていく感覚を初めて味わいながら――。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 そして再び気を取り戻しても、状況は全く変わってなかったというわけだ。
「う……」
 冬の夜気はとても冷たかった。あまりの寒さと惨めさに、涙が止まらなくなる。
「うぇ……どうしてよぅ……ぐすっ……誰かあ……」
 耐えきれなくて、私は子どもみたいに泣き出してしまった。嗚咽と同時に、耳元でピアスがシャラシャラと音を立てる。
 泣いてちゃだめだ。どうにかしないと。
 そう思って動こうと試みたが、どんなに引っ張って見ても糸は取れない。何かないか辺りを見回しても、暗闇のほかには何もない。せっかく作ったお菓子たちがすっかり冷え切って蜘蛛の糸のあちこちに絡まっているのがおぼろげに見えるだけだ。
 みんなで食べるはずだったお菓子。
 その無残な様子を目にすると、また生温かい涙が溢れ出してくる。
「ママぁ……パパぁ……アーサー……おじいちゃん……みんなぁ……マクゴナガル先生……ダンブルドア先生……」
 嗚咽が止まらない。思いつくままに親しい人たち、助けてくれそうな人たちの名前を呼んでも、何の助けにもならなかった。
「誰でもいいから、助けてよう……ママぁ……」
「おーい、スニベリー。ママがそーんなに恋しいのかよ?」
 突然、くっくと心底意地の悪そうな声が笑った。地上から光が差し、眩しさに目が眩む。
「全く、か弱い女の子みたいな声出しやがって。このマザコン……」
 そこで声の主がはっと息を呑む音がした。
「お前……スニベリーじゃ、ない?」
 私は知っていた。この声の主を。彼が私を誰と間違えているのかさえも。
「私スネイプじゃないわ……早くここから出してよ、シリウス・ブラック!」
 普段では怒鳴るなんて絶対ありえない相手に、迫力のない涙声で叫ぶ。
 ぐっと力を込めて見上げると、暗闇にさえ光り輝くような美貌の少年が、唖然とした表情でこちらを見下ろしていた。






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