5.ヘラクレスの受難の十二分の一

 ハリーは思わず眼鏡を外しゴシゴシと手で目元を擦り、シャツの裾で眼鏡ガラスを拭ってからそれを掛けなおした。夢じゃない。やっぱりダンブルドアだ。
「儂の声は聞こえるかの?ハリー」
 まるでガラスの中から響いてくるような、くぐもった声だった。
「はい、聞こえます」
「そうか、よかった。して、君はどこに飛ばされたのかのう。見た感じでは――これは現代の日本か?」
 半透明のダンブルドアは興味深そうにあちこちに視線を彷徨わせた。
「はい。幸い、この家に居候させてもらってます。英語が通じる人がいて」
「君は運が良かった」
 運が良かった?どういうことだ?混乱しているハリーの表情を見て、ダンブルドアは言った。
「ハリー、君はこの世界に飛ばされる前、銀色の玉に触れたであろう」
 ハリーは頷き、ダンブルドアの前にそれをかざして見せた。
「それは、『ヘラクレスの受難』という魔法道具じゃ」
「『ヘラクレスの受難』?」
「さよう。もっとも、それは十二分の一サイズじゃ。十二分の一サイズで本当に良かった」
 ハリーはマグルに育てられた。だから、ヘラクレスの神話だって少しは聞いた覚えがある。いやな予感を感じながら、ハリーは胡乱な銀の玉を眺めた。
「ヘラクレスは、マグルの神話の登場人物故、君も知っているだろうが――神と人の間の子で、そのために多くの困難を成し遂げなくてはならなくなった英雄じゃ。十の功績を挙げなくてはならないとの神託を授かり、結果十二の偉大な功業を成した。所謂ヘラクレスの冒険譚がこれにあたる。有名なのは地獄の番犬ケルベロス退治じゃな」
 真、マグルの神話は多彩で面白いのう、とダンブルドアはこどものような瞳で微笑んだ。
「そして、この冒険に憧れたある魔法使いが作り出したのがこの『ヘラクレスの受難』なのじゃ。これを所有した人間は、怪物退治の場所に自然と足が向く、あるいはいやがおうでも巻き込まれてしまう。そして、その困難を乗り越えないと自分の居場所には戻れんようになっている」
 ハリーはがっくりと項垂れた。
「大丈夫、先程も言ったようにそれは十二分の一サイズ故、君の試練はひとつだけじゃ。――とは言っても、君の場合にはもうひとつの要因が絡んであってのう」
 そこでハリーの脳裏にホグワーツでの最後の光景が浮かんだ。そうだ、最後に手を触れたのは……!
「もしかして、あの鏡ですか?」
 ダンブルドアは頷いた。
「あれは、『異次元鏡』という。平たく言えば、別の世界への入り口が作れる鏡じゃ。あれはホグワーツに贈られた寄贈品だったのじゃが、妙な感じがするとセブルスが言うので見に行ったのじゃ。そこで確認していると君の姿が映って、『異次元鏡』であることがわかった。しかも君の手の中には見覚えのある『ヘラクレスの受難』があった。恐らく、君が『ヘラクレスの受難』を持ったまま『異次元鏡』に触れたので、君の魔法力を媒介に魔法道具同士が共鳴し、君の意思に関わらず君を異次元へ飛ばしたのだろう」
 ハリーは今ここで目眩を起こして倒れてしまいたいと願った。厄介事はこの上なく自分のことが好きらしい。
「それにしても君は幸運な方じゃぞ、ハリー。異次元ではあるが、日本は治安の良い国じゃ。儂が別の『異次元鏡』を使った時には宇宙で戦艦同士が戦闘中のところに出てしまったり、恐竜やら怪物やらしかいない世界に行ってしまったこともある」
 いったい何でそんなところに行ったのだろう、とハリーはつくづくダンブルドアを不思議に思った。
「それでは……つまり、僕は何らかの困難を乗り越えないと、ホグワーツというか、そちらの世界に戻れないのですね?」
「そのとおり」
 ハリーの胸には自分への苛立ちが募った。どうしてあの時あんなにも迂闊に鏡に触れてしまったのだろう!
「まあ、困難とは、十中八九魔物退治だが――魔法生物学をきちんと勉強していたら、心配はなかろうて」
 試すような口ぶりでダンブルドアは言った。もちろん、ハリーには自信があった。今まで、いったいいくつの困難を潜り抜けてきただろう。そのことを考えれば、この受難はそう難しいものに思えなかった。誰かを人質に捕られたり、他の人が傷ついたりすることの方が、ハリーにとっての恐怖だった。
「『異次元鏡』は『ヘラクレスの受難』の呪縛が解けたなら君の元に開くことが可能じゃ。そして、受難は遠からず訪れるじゃろう」
 ということは、この生活は少しの間ということになる。理生と泰宏の顔が浮かんだ。親切で、優しくて、とても温かいふたりとの、心地よいこの場所から、去らなければならない。わかっていたことだが、ハリーの心は沈んだ。
 その様子を見てとったダンブルドアは目を伏せた。ダンブルドアはハリーの傷の深さを痛いほど熟知していた。
「君にはここで、心を休める良い機会を得たようじゃの。魔物を退治するまでのしばしの間、その安らぎに身を浸すのも良かろう」
 そしてまた、傷を負いながら前に進むハリーの道を照らすのも、ダンブルドアの役目だった。
「しかし、忘れないでおくれ。君は、こちらで、成すべき使命があることを」
 半透明のダンブルドアの瞳を見つめながら、ふと、この一連の騒動がダンブルドアの手によるものではないかという考えがハリーの頭の中に浮かんだ。
「――では、健闘を祈っておるよ、ハリー」
 ダンブルドアはウィンクをしてみせると、霧散して見えなくなった。






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