4.嵐に呼ばれて

 その後の午前中は理生の英語の宿題を一緒に片づけ、お昼は泰宏も戻ってきて一緒に「ソウメン」というものを食べた。とてもツルツルとしていて喉越しがが良く、さっぱりとしたおいしい食べ物だった。昨日から何でもかんでもハリーが「おいしい」と連呼するので、泰宏はすっかりご機嫌だった。
「おや、夜からは台風らしい」
 日本語の流れるテレビを見て泰宏が言った。理生はまだソウメンに夢中で、ちゅるちゅると音を立てている。驚いたことに、日本では麺類を食べる時に音を立てて食べるのが普通らしい。
「こんなに晴れているのに、台風が?」
「日本は、夏に台風が来る傾向があるんだよ――理生」
 それから泰宏は何ごとかを理生に話しかけた。
「Kaimono Tanomaretekureru kai?」
「Iikedo,nani?」
 それから理生は泰宏の言う単語をスラスラとメモに書きとった。ふっと理生と視線が合う。理生はくりくりとした黒い瞳でじっとハリーの顔を見、それから首、両手、お腹、足と視線を下ろしていく。何だか落ち着かない気分になって、ハリーはもぞもぞと動いた。
「At Harry ni zubon kayanakya! Otousan no ja tsuntsuruten dayo? 」
 なにやら日本語で話し合って、理生はまたじーっとハリーの足下を見た。そこでハリーは、理生が自分の着ている服のことを話しているのではないかと思い至った。とりあえず泰宏のジャージを借りているのだが、丈が全くあっていない。ハリーのふくらはぎは丸見えだった。
「あのね、ハリー」
 そして泰宏がとてもさわやかな笑顔で話しかけてきた。
「僕が短足なんじゃない。君の足が長すぎるだけなんだよ。そうなんだよ。僕はこれでも日本人じゃ背が高い方に属してるんだよ。178センチ56キロ。メタボリック・シンドロームなんて縁遠い、素敵に華麗なロマンスグレーのおじさまだ。そう、だからけっして短足なんかじゃない。いい?」
 ハリーはコクコクと頷いた。
「よし、理解してくれたならいいんだ。じゃあ、午後は理生と一緒に買い物に行っておいで」
 こうしてハリーは理生と街へ買い物に出ることになったのだったのだが、思った以上に日本の夏というものは暑いものだった。お昼過ぎのちょうど陽射しが強い時間で、ハリーの黒髪は今にもチリチリと音を立てて燃え出しそうだった。それだけではない。これがまた、地面ではなく大釜の底にいるのではないかと錯覚するほど蒸し暑く、神社の階段を下りいくらか歩いてようやく商店街に着いた時には、ハリーは汗がダラダラの状態で、心底ぐったりしていた。
「ハリー、大丈夫?」
「だめかも……」
 理生は平気なのだろうか、とキャップの下の表情を窺ってみると、焦げ茶色の肌にもすうっと雫が伝っていった。やはり現地人もこの気候は暑いらしい。しかし理生の流す汗は何故か清々しく、ハリーのとは違う水分のように見えた。
「ところで理生、何を買うんだい?」
「まずは、君の、ズボン」
 理生にそう言って連れて行かれたのは商店街の中心にある大きなデパートで、自動ドアをくぐると気持ちいい冷気がハリーたちを歓迎してくれた。
「とても涼しイ!幸せ!」
 理生はハリーを見上げてニコッと笑った。ハリーの心臓が奇妙な音を立てる。
「ここ!おいで!」
 また理生はハリーの腕を引っ張ってエスカレーターの方へと引っ張っていく。そして四階まで行くと、ティーンズ向けのコーナーが広がっていて、理生は財布と睨めっこしながらハリーの服を選んでいった。ハリーはお金を出してもらっている身だし、とにかく丈があっていればそれでいいのだが、理生は「サイズがない」とか「それ、良くない」とか「うー、高い」とか「ダメ、似合ってない」とか言って厳選している。ハーマイオニーといいウィーズリーおばさんといい、本当に女の人は国境を越えても買い物が好きなんだなあとハリーはつくづく思い知らされた。
 試着し終えてようやく会計が済んだ後、ふたりはデパートを出て商店街を回った。ダイアゴン横町のような活気はないものの、優しそうなおじさんやおばさんが丁寧に対応してくれて、ハリーはこんな商店街もいいなあと思った。買ったものは、肉や野菜や生活用品で、メモに全部チェックが付いた時には、けっこうな量になっていた。
「これ、いつも、私がやる」
 帰り道、家に向かう途中に理生がそんなことを言ったので、ハリーはずいぶんびっくりした。ふたりで手分けして持っているのだが、それでもかなり重い。
「だから、ありがと、ハリー」
「どういたしまして」
 理生の笑顔を見ていると、胸の中が何だか暖かくなった。
 家に戻ってくると、まだ泰宏は戻っていなかった。理生は「お風呂、掃除する」と言って風呂場に籠もってしまった。ハリーは理生の入れてくれた麦茶を一口で飲み干すと、扇風機の前に陣取った。
「あー、暑い……」
 ハリーはふと、ハンガーに吊り下げられている自分のホグワーツの制服に目をやった。棚のところには、一緒に持ってきたあの古鏡が置いてある。それからポケットに手を伸ばして、あの時光った玉を取り出した。
 これ、何なんだろう……どうして僕はこんな……日本なんかにまで飛ばされてしまったのだろう?
 ハリーは赤くなってきた空に玉をかざした。烏の声が木霊する。
 ――僕は、戻りたいのだろうか?
 きらきらと夕陽に反射する玉を見ながら、ハリーは自問する。
 あのホグワーツに、僕は本当に戻らなければならないのだろうか?そりゃ、ロンやハーマイオニーがいるし、ルーナだって(「ハリー」)心配しているだろう。チョウは……どうだろう。わからない。だけど(「ハリー」)、戻ってももう――。
 シリウスは、いない。
 穏やかな、平和な生活は――望めない。
 理生と過ごした今日のような、ゆるやかな日々は――。
「ハリー」
 気づくと、理生がハリーを覗き込んでいた。
「大丈夫?」
 黒い瞳が、心配そうに揺れている。ハリーの胸がちくりと痛んだ。
 ――戻ったら、理生とも……もう会えない。
「何でもないよ」
「嘘つき」
 理生はそう言ってじっとハリーを見つめる。ずいぶん英語の発音が滑らかになっているなあ、と場違いな感想が脳をかすめた。 
「私、も」
 理生が口を開く。だが、上手く言葉にできないようで、しばらく頭にガシガシと手をやりながら、うーっとうなっていた。
「Nante ieba iinokana...... Ummmm...... もし……」
 それでも、少しずつ、話しかけてくれた。
「もし、外国にひとりで行ったら、私は淋しい。もし、外国でひとりだったら、私は悲しい。もし、外国で迷子だったら、私は家が恋しい。――私も、きっと、同じ」 
 そうして理生はハリーの頭を優しく撫でた。
「言いたくないのなら、聞かない。だけど、ひとりで、悲しく、していないで」
 見た目は小さい理生だけど、その手はウィーズリーおばさんのように温かく感じられた。ハリーは座ったままで理生を見上げる。穏やかで熱いものが、じわじわとハリーを浸食していく。
「Arigarou, 理生」
 ハリーはそれだけ言うのが精一杯だった。理生はニコッと笑った。
「理生!ハリー!」
 泰宏の声が響いた。玄関の方から、白いローブのような不思議な格好をした泰宏が現れる。これは「カンヌシ」という職業の特殊な格好で、つまり修道院や教会の神父や牧師のような職業の制服だということをハリーは昨日のうちに聞かされていた。
「Chyotto cyounaikai no Syukai ni ittekuru. Jinjya no rusuban tanomuyo」
「Mata?」
「Omatsuri ga mousugu dakara shikata naisa. Yoroshiku ne.」
そう言って泰宏は理生の頭を優しく撫でた。さっき理生がハリーにしてくれたのと、全く同じように。
 それから泰宏はハリーの方に向き直った。
「ハリー、ちょっと出かけてくるから留守を頼むね。理生は神社の方見ててもらうから、ハリーは水やりと草むしり頼むよ。あと鶏にエサをやってくれ。六時過ぎたら理生も戻ってくるから、それまでよろしく」
 そう言って泰宏はまた同じように泰宏より背の高いハリーの頭を撫でた。
 ――そんな些細な仕草が、どうしようもなく嬉しかった。
 ハリーはこっくりと頷いた。
 そして泰宏が出かけていき、理生が最初に会った時の服装に着替えてまた出て行くと、ハリーはひとり神野家の庭で草むしりを開始した。「隠れ穴」のように走り回る妖精こそいないものの神野家の花壇はけっこう見事なもので、何種類もの草花が植えてあり今は大きなひまわりが顔いっぱいに太陽を浴びていた。その隣では、サルスベリの木がピンク色に咲き誇っている。周りの森からは、絶えず虫の合唱が流れてきて、うるさいほどだった。
 ――きれいだな。
 ハリーは久しぶりにそう感じた。思えば、今まで様々なことがハリーを忙しなくさせていて、花を、緑を、景色をゆっくり愛でる機会なんてなかったのだ。 
 草むしりをしていると、土の匂いもぐっと近くに感じられた。水やりをすると、草花が生き生きとするのがわかった。
 ここは、ただ穏やかで、平和で、何故か懐かしい。
 ハリーはそんな風に思った。
 それからハリーは暑さで小屋に引っ込んでいた鶏たちにエサをやり、しばらくぼうっとその食事風景を眺めていた。だんだん夕陽が沈んでいく――と思いきや、いきなり空が暗雲に覆われ、ゴロゴロと鳴り始めた。
 ピカッ、ドシャーン!
 まずい、と思った時にはもう遅かった。凄まじい豪雨が地面に降り注ぎ、ハリーの身体をも叩き始めた。ハリーは急いで小屋の鍵を閉め、走って神野家玄関へと急いだ。
 玄関でビショビショになった服を脱ごうとして、ハリーはポケットにあの玉を入れっぱなしにしていたことに気づいた。取り出して何となくかざしてみる。ただの透明な玉のように見えるが、そうではないのだろう――と思ったその時、玉を通して轟音とともに紫色の雷鳴が落ちるのをハリーは見た。
 ガラガラガッシャーン!!
 ハリーは思わず目をつぶった。そしてゆっくりと目を開ける。
 ――するとそこには、半透明のダンブルドアが、煙のように浮かんでいた。






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