3.日常と非日常

 神野家での生活は、何をとってもハリーにとって珍しいものだった。
 まず、風呂。ホグワーツの監督生の風呂は大きくて楽しいものだが、理生の家の風呂もかなり広く、しかも檜という木でできていて、とても良い香りがした。しかも毎日風呂に入るのだというから驚きだ。
 そしてベッドだ。いや、正確に言うとベッドではない。日本人は、その家によっても違うらしいが、タタミという草を引き締めた分厚いマットの上に、布団を敷いて直接寝るのだという。ハリーはこれにはびっくりだった。しかし、寝心地が悪いとかそういうことは一切なく、ダーズリーの階段の下の物置のベッドより断然快適だった。
 気持ちの良い風呂から上がると、ハリーはこの心地よい布団でぐっすりと寝てしまった。
 次の日は朝早くから起こされ、ハリーは理生と一緒にジンジャというところを雑巾がけし、あちこちの草花に水をやったり、鶏小屋を掃除した。理生は英語がそれほど得意ではないようだったが(かといってハリーが日本語をちょっとでも喋れるかというとそうではないので、少しでも話すことができる理生は偉いなあとハリーは思った)、身振り手振りを合わせるとけっこう何を言いたいかはわかるのだった。理生は「時ハ金ナリ」といいながら雑巾がけをし、「働カザル者食ウベカラズ」といって鶏小屋をハリーに掃除させた(その間に理生は鶏にエサをやっていた)。
「おなかへったぁー」
「オナカヘッター」
 そう言い合いながらふたりが戻ってくると、泰宏が可愛らしい白いエプロンを身につけて朝食を用意しているところだった。
「おはよう、ハリー」
「おはようございます、泰宏おじさん」
「Otousan,Ohayou」
「理生、Ohayou.……そうだ、ハリーも挨拶くらいは覚えた方がいいな。日本語で『Good Morning』は『Ohayou』だ」
「Ohayou...」
「そう、上出来。覚えたね」
 ハリーは心の中で何度も「Ohayou」と唱えた。けっこうすんなりと頭の中に入ってくる。少し日本語を覚えるのも楽しいかもしれない。
「ハリー、手!」
 何度も練習していると、理生に呼ばれた。洗面所から手を振っている。
「手を洗っておいで。ほら、もうご飯できてるよ」
 ハリーがちらりと台所に目をやると、見たこともないような日本食がたくさん用意してあった。白いコメからは湯気がもうもうと出ていて、とっても良い匂いがハリーのお腹の虫を誘惑している。
「ハリー、ナニカスキジャナイタベモノ、アル?」
 先に手を洗い終わった理生が洗面所で訊いてきた。ハリーは否定する。ダーズリーの家で好き嫌いなんてしていたらとっくの昔に餓死してしまっていただろう。
「何でも好きだよ」
「ヨカッタ」
 理生がにこっと笑って言う。
「オ父サン、残スト、怒ル。モノスゴク。……鬼ミタイ」
「そうだよー」
 泰宏がひょいと洗面所に顔を出した。洗濯の用意をしているみたいだ。
「お米には神様が宿ってるんだからね。もちろん、お米だけじゃなく、全部の食べ物に、命が宿ってるだから」
 不思議なことをいいながら泰宏は洗濯機に次々と衣類を放り込んでいく。
「デモ、オ父サンのゴハン、オイシイよ」
 言われたとおり、泰宏の朝食はとても美味しかった。
 そして朝食を食べ終わると、泰宏は仕事があるからとジンジャの方へ行ってしまった。理生は食器を洗っている。手持ちぶさたになったハリーは、一息ついて、大きく伸びをした。そしてすっかり大事なことを忘れていたことに気づく。
 それにしても……いったいどうやったら帰れるのだろう?
 あんまりここの生活が平和で珍しく楽しいものだから、昨日からすっかり失念していたが、何週間も世話になるわけにもいかないだろうし、第一ここは魔法使いでもなんでもないマグルの家庭だ。解決策が見つかるとは思えない。
 ──僕は、あのホグワーツの日常に戻らなければいけない。シリウスのいない、あの世界に……。
 そのことを考えるとハリーは憂鬱になった。
 ホグワーツの生活は、ほとんどの生徒から誤解され、あることないこと囁かれるのが当たり前の毎日だった。アンブリッジからはあのような理不尽な攻撃をされ、そして最後には自分のせいでシリウスが……。
 もう、自分を暖かく迎え入れてくれる家族はいない。シリウスとふたり、楽しく暮らす未来もないんだ。そう、愚かな自分の行動のせいで……。
 胸が苦しくなって、ハリーは自分の胸ぐらを抱え込んだ。
「大丈夫?」
 顔を上げると、理生がハリーを覗き込んでいた。大きな瞳で、心配そうにハリーを見つめている。やっぱり幼いが、とても可愛い。
「何処カ、悪イ?」
「ううん、大丈夫……」
 ハリーは力無く答えた。やっぱり説得力がなかったのか、理生はハリーのクシャクシャ頭を撫でてくれた。その温もりに、ハリーは少しだけ泣きそうになる。
 こんな、見知らぬ他人のはずの僕に、どうしてここまで優しくしてくれるんだろう……。
 恐らく、そう尋ねても理生は聞き取れないだろう。だから言わないが、ハリーはそう訊きたい気持ちでいっぱいだった。
「ありがとう」
 代わりにお礼を言うと、理生はにっこり笑った。
「ドウイタシマシて」
 少し発音も良くなってきている。こんなに小さいのにすごいなあとハリーはまた感心した。
「『ありがとう』って、日本語で、なんて、いうの?」
 ゆっくり尋ねると、理生は「Arigatou」と答えた。
「Arigatou」
「上手!」
 「Ohayou」に続いて「Arigatou」も、ハリーはすぐ覚えることができるだろうと予感した。
「トコロデ」
 理生が何とはなしに訊いてきた。
「ハリーっテ、何歳?」
「えっと、15歳。理生は?」 
「同ジ。ハリーと同ジ。15」
「えっ!!!?」
 ハリーは思わず大声を上げた。てっきり、大きくてもホグワーツでいうなら一年生かそこらだろうと思っていたのだ。
「ムー……、どうしテ、驚くノ?」
 理生が口を尖らせて言う。だって、驚かない方がどうかしている。東洋系の顔立ちは若く見えると言うけど、ここまでとは思わなかった。
「ごめん。もっと年下かと思ってた」
「うー……」
 恨めしそうにハリーを見る理生。ぷくっと頬が膨らんで、まるでハリセンボンのようだ。その様子がますます子どもっぽくて、ハリーは思わず笑ってしまう。
「なんで、笑うノー!」
「ごめんごめん」
 そこでハリーは心からくつろいでいる自分に気づいた。さっきまで落ち込んでいたのが嘘のようだ。
「理生って、すごいね」
 理生は怪訝そうな顔をした。
「僕こんなに気分が軽くなったの本当に久しぶりだよ。理生、すごいよ。君って本当は魔女なんじゃない?そうだったら嬉しいんだけどな」
 早口だと理生が聞き取れないのをいいことに、ハリーはポンポン本音を吐き出した。
 案の定、理生はハリーの言葉が聞き取れなかったらしく「もう一回」と言っている。
 ──これは、ひょっとしたら、少しホグワーツから離れるべきってことなのかな。
 不謹慎なことを考えながら、ハリーは理生に向かって「Arigatou」とにっこり笑った。






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