10.さようなら

 気づくと、ハリーは理生と一緒に毛布の中に包まっていた。ふたりとも、抱き合いながら眠ってしまったらしい。さすがに慌てて身体を離すと、寝言だろうか、理生が不満そうな音を出した。その顔にちょっとだけ笑ってしまう。すると瞼が腫れぼったいのに気づき、さらに男のくせに大泣きした自分を思い出してしまい、恥ずかしさでカーッと頬が熱くなった。
 ――泣き顔は、理生には見られてないはずだけど。
 ハリーは洗面所に向かった。窓を覗くと、どうやら明け方らしい。
 一緒に抱き合って寝ていたのを泰宏に見られたのは確実だ。何て言ったらいいんだ?
 バシャバシャと勢いよく顔を洗いながら考えあぐねていると、ガラリと音をたてて戸が横に開いた。
「起きたかい。……ちょっと、いいかな?」
 ハリーは泰宏に向ってこくりとうなづいた。
 ふたりして静かに居間に入ると、理生はまだ熟睡しているようだった。泰宏はいつもの低い机に、ふたつの湯呑みをおいた。
「飲みなさい。喉が痛むだろう?」
 ハリーは熱いお茶に口をつけた。苦いはずなのに、何だか甘く感じる。
 泰宏は何も言わず、じっとお茶を飲むハリーを見ていた。ハリーがゆっくりお茶を飲み干すと、「もう一杯飲みなさい」と急須を持ってきてまた注ぐ。そして二杯目に一口つけたところで、やっと声をかけられた。
「申し訳ないが、昨日、君と理生の話を立ち聞きさせてもらった」
 ハリーは口に入れたお茶が気管支に入り激しくむせた。
「どっ、ゲホゲホ、どこから、聞いて……ゲホッ!」
「ほぼ全部。君が風呂から上がってきた後からだ」
 ハリーは涙目で泰宏を見た。その表情からすると、怒っているわけではないようだ。
「正直、理解に苦しんだ」
 ハリーは無言だった。何と言っていいかわからなかった。
「けれど、私は君が嘘をついているとは思えない。理解に苦しむ、というよりは、理解が追いつかないといった方が正しいかな……」
 泰宏は腕を組み、それからニヤッと笑って言った。
「だから僕にも見せてくれないか?君の魔法を」
 こうくるとは思わなかった。ハリーはびっくりしたが、泰宏の顔を見て、身体から緊張が解れていくのがわかった。杖を出し、少し考えた後「オーキデウス!」と唱えた。ハリーの杖先からひまわりの花がびよんと飛び出した。泰宏は目を見開いた。だけどこれだけじゃサーカスとか単なる手品みたいだ。そう思ったハリーは、「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」と唱え、泰宏を浮かせた。これにはさすがの泰宏も驚き、感嘆の声を上げた。
「すごいね。どうやら、本当に本当らしい」
 空中にふわふわ浮きながら泰宏が言った。
「……その力で、昨日吠えていた動物を退治してくれたんだね?」
 ハリーはためらったが、うなづいた。
「泰宏が言ってた大きな見慣れない動物は、魔法界の生物、キメラでした。苦戦しましたが、最終的には石にして、勝手に粉々になりました。もう、心配はいりません」
「ありがとう、ハリー。でも、危ない真似はほどほどにしなさい」
 ハリーは曖昧に笑って、それから泰宏にかけた浮遊呪文を解いた。泰宏はちょっと残念そうな顔をしていた。
「ところでハリー。君はどうやら大冒険を成功させたみたいだけど、勇者は一体どうやったら元の世界に帰れるんだい?」
「それはわしから説明させて頂くとしよう」
 突然、ダンブルドアの声が響いた。それは、この部屋の隅においた異次元鏡からだった。やがてその鏡から、ふわふわとした煙状のダンブルドアが現れた。
「……こりゃ、驚いた」
 泰宏がぼそりと言う。ダンブルドアはにっこりと微笑んで、低い机の前に正座した。
「お初にお目にかかる。こんな姿で失礼なのじゃが、わしはアルバス・ダンブルドアという者で、ホグワーツ魔法魔術学校の校長をしております。今回はうちの生徒がお世話になったようで、感謝しておりますぞ」
「あ、ああ。こちらこそ、初めましてダンブルドアさん。私は神野泰宏と申します」
 ふたりは握手を交わした。今のダンブルドアは煙なのに、どうやら触感はあったらしい。
「それでは説明いたそう。今回ハリーをこちらに引っ張りこんだ異次元鏡、これをまた開いてわしらの世界と繋げます。ハリー、君は今すぐにでも帰ることができるのじゃ」
「そう、ですか」
 ハリーは押し黙った。そうだ。わかっていたことだ。「受難」を終えたら、帰らねばならない。それは始めから決まっていたことだった。
「しかし、ちゃんとお世話になった方々にお別れの挨拶をせんとのう。ええと……そうじゃな、こちらの時間で言う今日の正午に、最初に現れた場所で扉を開こう。忙しないですが、よろしいですかな、神野さん」
「ええ、わかりました。きっとハリーは、あるべきところに戻るのが一番いいのでしょう」 
 泰宏が了解した時、後ろで人がうごめく気配がした。振り返ると、ブランケットを被った理生が立っていた。
「ハリー、帰るんだ。帰レるんだね。よかったね……」
 理生の口調は、何処か寂しげだった。何も言えず、理生の頭を撫でる。
「あなたは、ダンブルドア?」
 理生が尋ねた。
「いかにも、いかにも。お嬢さんが、ハリーを助けてくれた子だね?ありがとう。本当に、君がいなかったらどうなっていたことか。心からお礼申し上げる」
 そう言ってダンブルドアは理生に対して笑顔を見せたが、理生の方は何故だか難しい表情をしていた。
「あなたは……あなたが……ダンブルドア……そう」
 理生はハリーが主人公の本を読んだと言った。当然、ダンブルドアも深く関わっているだろう。彼女はハリーが知らないダンブルドアの事情を知っているのかもしれない。
「ハリーを、よろしクお願いします」
「もちろんだとも」
 理生の真意はわからない。だが、自分のことを大切な友人だと思っていてくれることは確かだ。
 だから、ダンブルドアが挨拶をして消えた後も、その本のことについてハリーは何も尋ねなかった。理生が言わないのなら、聞かない。そしてたぶん、それが正しいのだ。僕たちは、友達なのだから。

 そして約束の時間まで、ハリーたちはいつもどおりに過ごした。庭の手入れ、鶏の餌やり、掃除に、あと昨日の後片付け。早めのお昼は、みんなで手巻き寿司を作った。その合間に話すことと言えば、昨日の夏祭りのことや、庭の花や家畜のこと、理生の英語の上達ぶりについて。ハリーがいなくなってしまうことなんか、嘘のようだった。
 それでも、時間は流れる。
「ハリー、忘れ物はないかい?」
 十一時半になって、やっと泰宏がハリーに訊いた。
「はい。もともと、そんなに持ってきていないですし」
「はは、そうだったね」
 ハリーはこの世界に来た時の、ホグワーツの制服とロープに着替えていた。杖もちゃんと持っている。
「理生、場所は階段下の鳥居の前で、間違いないんだね?」
「そうだよ。何で、お父さんまで英語で話すの?」
「すべては理生のためだよ。本当に上手になったね」
「ドウイタシマシテ」
 わざとカタコトの英語で返す理生に、ハリーも笑った。穏やかに、ゆっくりと時が進む。
「そろそろ、行こうか」
「――はい」
 ハリーはもう一度、この出会いのきっかけとなった銀の玉と不思議な鏡を確認した。
「あ、ハリー、待って!すぐ、戻る!」
 理生がドタバタと引き返していった。泰宏とふたりきりになると、何となく静かになる。理生は、いるだけで場を賑やかに明るくしてくれる存在なのだと、ハリーは改めて気づかされた。
「ハリー。餞別だ」
 泰宏の手にあったのは、神野家に滞在している間中ハリーが使っていた湯呑みだった。ハリーの目の前で、日本式の布で割れないように包んでくれた。渡されたそれに、温かい気持ちにさせられる。
「大したものじゃないけど、思い出になるだろう?」
「ありがとう、ございます」
 ハリーは心からのお礼を言った。泰宏は黒い瞳を少しだけ光らせて、言った。
「ねえハリー。僕は理生と違って、あの本を読んでいないんだ。だから君がどうなるかは、わからない。だけど、きっとたくさんの困難を乗り越えて、幸せになってくれると信じているよ。ヒーローっていうのは、そういうものだろう?」
「泰宏おじさん――Arigatou」
 ハリーは泰宏に抱きしめられた。ハリーより背が低いのに、泰宏のことがとても大きく感じられた。
「あなたがこのうちに泊めてくれなかったら、僕は今頃行き倒れていたと思います」
 ふたりは声をあげて笑った。
「何で笑ってるノー?」
 戻って来た理生が不思議そうな顔をしていた。手に何か赤いものを持っている。
「はい、これ、あげる」
「僕に?」
「うん!うちの神社の、お守り。勝利の、お守り」
 受け取ったそれには、日本語で何か書かれていた。泰宏によれば、それは英語で勝利を意味するのだという。
「Arigatou」
 ハリーはそれを大切にポケットの中へしまいこんだ。
 そして三人は、長い階段を下って行った。ここを駆け上がることは、もうないのだ。最後の他愛無い会話を楽しみながら、三人は目的の場所――鳥居の前へ向かった。
「もうすぐだ」
 泰宏が告げた。
 ハリーは異次元鏡を取り出した。
「ハリー」
 理生が瞳を潤ませながら、それでも笑顔で、ハリーの名前を呼んだ。
「忘れないで。私は君の友達――大親友。私は、君が何処にいっても、そのつもり、だから」
 言葉が出てこなかった。代わりに理生を抱きしめる。
「当たり前だろ?君は僕の大親友だ。しかも、かなり特別な親友だよ――違う世界にいる、親友なんて」
「かなり特別――そうだね」
 ふたりはおでこをくっつけあって、笑った。
「――時間だ」
 泰宏が言った。ハリーは理生の身体から離れた。突然、異次元鏡が宙に浮き、白く輝きだした。
「さようなら」
 ハリーは笑って言った。覚えていてほしいのは、泣き顔じゃなくて、笑顔だ。
「理生、泰宏、本当にありがとう。どうか、お元気で」
「ハリー!」
「君も、身体を大事にするんだよ」
 ますます光が激しくなった。後は鏡に、指で触れればいいだけだ。
「ハリー、さようなら――」
「さよなら――」
 理生は笑顔で涙を流していた。
「ハリー!ずっと、友達だよ!!」
 ハリーの指先が鏡に触れたのと、最後に理生が叫んだのは、ほぼ同時だった。泰宏と理生の姿がぐにゃりと曲がり、色がなくなる。自分自身が溶けてなくなってしまうかのような感覚に、ハリーは身を任せた。






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