9.世界を、超えて

 ハリーは上空からキメラの姿を視界に捕えた。彼は(たてがみがあるのでおそらくオスだ)新鮮な獲物を取り逃がした怒りで獰猛に唸っている。
 危険なのは、ライオンの口とドラゴンの尻尾だ。特にドラゴンの尻尾には毒があるし、とても皮が固い。だから狙うとすれば、ヤギの胴体。
 ――本当は、キメラといえど命を奪うのはいやだ。しかし状況はそんな生易しいものではない。周りはマグルだらけで応援は望めない。しかも気づかれないようにしないといけない。そんな中で怪物の命を尊重するなんて――無茶だ!無謀だ!わかっている。わかっているが、ハリーは何か方法がないかと思案した。
 ウーウアァン!
 まるでハリーに出てこいと言っているようだ。あまり吠えられるとマグルに気づかれてしまう。ハリーは旋回してキメラに近づいていった。
 そしてこちらに気づいていない様子のキメラに向かって、素早く杖を振った。
「ステューピファイ!麻痺せよ!」
 だが杖から出た呪文は固い皮膚で覆われた尻尾に弾き飛ばされた。ガゥルルル、と低い唸り声が響く。そして一気に追いかけてきた。ハリーは人気のない山の中へとキメラを誘い込んだ。
 とりあえず、これでキメラの関心をこちらに惹きつけられた。胴体はヤギ、尻尾はドラゴンだ、それほど足が速くないだろう。とりあえずは走らせて疲弊させようと、ハリーはどんどん山の奥深くへと分け入っていった。キメラは夢中でこちらを追いかけてくる。
 そのあいだ、ハリーは必死に考えていた。
 どんな魔法生物にも弱点がある。キメラの場合だって、ひとりとはいえ退治した魔法使いがいるのだ。絶対に弱点があるはずだ。それにハリーは、二年生の時にあのバジリスクでさえ倒したのだ――希望はある、絶対に!
 グリフィンドールの剣はないけど――グリフィンドールの勇気は、今だって持っている!
 己を鼓舞し、くるりと方向転換すると、ハリーは杖から呪文を放った。
「インペディメンタ!」
 妨害呪文はヤギの右前足に当たった。雄叫びを上げてキメラが止まる。
「タラントアレグラ!」
 さらに足の部分目がけて放ったのは踊らせ呪文だ。これでキメラの足は襲いかかることができなくなった。
「うわっ」
 代わりにドラゴンの尻尾が襲ってきた。ハリーは間一髪避けたが、あたりの木々が勢いよく倒された。そこへライオンがハリーの血肉を食らおうと牙をむく。
「コロポータス!」
 とっさに出たのは扉封鎖の呪文だった。これが至近距離だったためうまいことライオンの口に直撃し、ハリーが食われることはなくなった。鼻からしか呼吸できなくなったキメラはますます激怒し、踊りながらも尻尾を闇雲に振り回してきた。ハリーは巧みな飛行術でそれをかわし、何度も妨害呪文を放ったが、尻尾の皮には通用しなかった。
 くそっ、一番危険な部分には魔法が通用しないのか――あそこさえ、何とかできれば――!
 ハリーは戦いながらハジリスクと対峙した時のことを思い出していた。あの時は杖も取られ、絶体絶命のピンチだった。それに比べ、今は杖も箒もあり、相手と目があっただけで石になることもないのだから――ん?待てよ――そうだ!
 ハリーは尻尾を避けながら、杖に集中した。尻尾が風を切り、右の頬がぱっくりと裂けた。それでも慌てず、ハリーはその時を待っていた――。
 キメラは確実に疲労していた。もう一度、ハリーがギリギリのところで尻尾をかわすと、苦しそうに鼻を鳴らした。
 ――今だ!
 ハリーは一旦空に高く上がると、勢いをつけて飛び込んでいった。
「ペトリフィカス・トタリス!石になれ!」
 閃光がキメラの瞳を直撃した。途端に頭は動きが止まり、次に足も動かなくなり、そして――ゆっくりと、往生際が悪いことこの上なかったが、ドラゴンの尻尾も微動だにしなくなった。
 ハリーは大きく深呼吸した。
 やったのだ――「受難」をクリアしたのだ。
 すると不思議なことに、石になったキメラが砕け、さらさらとした砂塵になった。
「……帰らなきゃ」
 ハリーは満身創痍で呟いた。そして理生の待っているだろう神野家へと急いだ。
 ――約束したのだ。必ず戻ると。

「Okaeri」
理生は神野家の玄関の前で待っていた。
「Tadaima」
 ハリーは笑った。その時、ドッと疲れが押し寄せた。駆け寄ってきた理生が慌ててハリーを支えた。
「血!血!何処か、痛む!?怪我、ある!?」
「大丈夫。ちょっと疲れた、だけ。怪我もしてない。理生――あの化け物は、もう、いないよ。だから、安心して」
 ハリーとしては一刻も早く安心させてあげたかったのだが、理生はキメラのことよりハリーの身体のことに関心がいってしまったようだった。あちこち調べられた上、強制的に風呂に入れられ、上がった後は、ところどころ裂けた皮膚にマグルの薬を塗られた。
「泰宏は?」
「まだ、仕事」
 バジリスクに噛まれてもいないし骨を溶かされてもいない。本当に大丈夫なのに、理生はひとつひとつ丁寧に処置を施した。
「……何か、僕に訊きたいことはないの?」
 ハリーは思い切って話しかけた。だが、理生の返答は意外なものだった。
「ない」
 ハリーの瞳が大きく見開かれた。
「どうして?」
 訪ねると、理生はしばらく考えこんだ。そして意を決したように、真剣な表情でハリーの緑色の瞳を見た。
「だって、私、君のこと知ってる。ホグワーツの生徒。魔法使い。グリフィンドール。親友はロンとハーマイオニー。名付け親は、シリウス。君はシリウスが大好き。……当たってる、デしょ?」
 ハリーは驚愕のあまり言葉がなかった。
 ――なんで、どうして、君が知っている?

 ハリーは前々からもし自分の正体を話したらきっと理生たちは信じられないだろうと思っていた。だが、理生の話はそれ以上にハリーにとって信じられないものだった。
 なんと、この世界――理生と泰宏が暮らしている世界には、「ハリー・ポッター」という本があるというのだ。それはイギリスの女流作家が書いた児童小説で、世界各地で翻訳されているベストセラーであり、映画化されてとても有名なのだという。そして、その主人公ハリー・ポッターは、つまり――。
「僕?そんな、まさか――」
 うろたえるハリーに、理生は静かに訊いた。
「一年生の時、寮を決めル時、ハリーは、願ったね?スリザリンはいやだ、っテ」
 ハリーは絶句した。それは、組み分け帽子とダンブルドアしか知らない事実だ。それを理生が知っているということは、つまり――信じたくないし顔から炎が出るほど恥ずかしいが、理生の言葉は本当だということになる。
「信じて、くれた?」
 ハリーはまだその事実を消化しきれず、視線は虚空を彷徨っていた。
「私も、信じたのは、ついサっき。魔法を見た時。でも……そうなんだ。ハリーは、本当のハリーなんだっテ、信じられた。不思議ダけど」
  理生はまるで自分に言い聞かすように、静かに語った。
「最初に会った時、ハリー・ポッターが好きな子、なんだって思った。本物とは、考えなかったシ、思わなかった。映画のハリーの子と、ハリー、全然違う。迷子か、家出。そう考えてた。お父さんも」
 ハリーは理生との出会いを思い出していた。夕日の中、箒を持った巫女姿の女の子。それが理生だった。
 もし、理生に出会わなかったら。そう考えると寒気がした。出会わなかったら、この世界での暮らしはおそらく悲惨なものになっていただろう。
「でも、一緒に、生活した。たくさん、話した。一緒に、笑った――友達に、なった」
 その言葉は、茫然としていたハリーを正気づかせた。やっと正面から理生を見据える。
 理生はひまわりのように、明るい笑みを浮かべていた。
「今日、魔法も見た。ハリー、私を助けてくれた。すごカった!」
「そんなこと、ない。あれはもともと、僕のせい……」
「それでも」
 うつむいたハリーの手を取り、理生は言った。
「ハリーのこと、信じるよ。友達だから。『僕を信じて』っテ、何度も言ってたよね、ハリー」
 ふいに涙腺が熱くなった。
 ――だめだ、馬鹿、泣くな。
 ハリーは己を叱咤した。
 こんな、まだ出会ってから何日も経っていないというのに。生まれ育った世界も、国も、言葉も違うのに――なんでこんなに、あまりにも呆気ないほどあっさりと、僕を信じてくれるのか。途方もない荒唐無稽な話を信じてくれるのか。友達だと、声高らかに言ってくれるのか。
「君は、違う世界から来タ、本物の、ハリー・ポッター。そして、私の友達」
 零れ落ちた涙を、理生の指が掬った。
「それだけ、だよ」
 その一言が止めだった。ハリーは泣いた。シリウスが死んでから初めて、大声で泣いた。理生はそんなハリーをおずおずと抱きしめた。ハリーは躊躇なく抱きしめ返す。
 それは今までの、怒りや後悔や、悲しみのための涙とは違っていた。何のための涙なのか、自分でもわからない。それでも――何か、救われたような気がした。そしてそれがあまりにも苦しい嬉し泣きだと、そう気がついたのは、ずいぶん後になってからのことだった。




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