ハリーと理生は夜空を見上げているあいだ、何の会話もしなかった。
巨大な花火の美しさに感動していたせいもあったが、それよりもハリーは理生とのこの時間を味わっていたかった。帰れば、おそらく二度と見ることのない光景を、この目に焼きつけていたい。国や言葉の垣根を飛び越えて、何の隔たりもなく友達になってくれた、理生の手の温もりを覚えていたい。
ハリーはちらりと理生を見た。
理生がどういうことを考えていたのか、ハリーには見当もつかなかった。それでもかすかに聞こえてくる感嘆の声で、このひとときを彼女が楽しんでいることがわかった。
やがて一際大きな花火が打ち上がり、空には星と月以外何も見えなくなった。
「終わりだね」
本当はもっと見ていたかった。理生も少し寂しそうにうなづいた。
「うん。……どうダった?」
「すごく、きれいだったよ。びっくりした」
「……Wasure nai dene」
理生が日本語で何か呟いたが、「何?」と尋ねると「何でもナい」と言われてしまった。
「さあ、戻ロ!仕事、たくさんある!」
理生がぐいぐいとハリーの手を引っ張っていく。ハリーは導かれるまま、理生と獣道のようなところを下って行った。
「あ!」
理生が転びそうになったのを後ろから抱きとめて何とか防ぐ。理生は結構、そそっかしい。
「ご、ごめん。ありがとう、ハリー」
「大丈夫?暗いから、気をつけないと――」
ウーワアァン。
肌が一瞬にして粟立つような、奇妙な鳴き声が聞こえた。ハリーはとっさに杖を構え、理生を自分の後ろに引っ張った。
「……ハリー、まさか……」
「黙って」
怯えている理生の手を強く握りしめ、耳を澄ます。
そう遠くはない。
――どうする。ひとりならともかく、理生がいる。
理生の前で魔法を使うわけにはいかない。それに「受難」がどんな相手か分かってもいないのだ。悔しいが、守りきれる自信もない。安全なところに避難させた方がいい。
だが万が一、避難させているあいだに、「受難」が人の大勢いる境内にまで侵入してしまったら?
「理生」
ハリーは振り返り、暗闇の中の理生の目を見つめた。
「ここから、ひとりで、家まで戻れるね」
それは付加疑問文ではあったものの、実際は柔らかな命令だった。
「ハリー!ダメ、ダメ!ひとりで、何ができるの?」
「理生。お願いだ――ひとりで、帰って」
「いや!」
ウーワアァンン。
理生の声に応えるかのように、さらに大きな遠吠えが聞こえた。
――まずい。こっちの存在を気づかれた!
ハリーは理生の手を引いて来た道を走って戻った。もう迷っている暇はない。
「ハリー! Doko ikuno!? Socchi ha ikidomari!!」
「僕を信じて!」
さっき花火を見ていた、あの高台。あの下には神野家の庭があった。あそこなら――。
足音がする。四足の動物だ。いや、魔法生物か。でも不思議とずるずると、何かを引きずる音もする。それに遠吠えは遠吠えでも、狼男とはちょっと違う。もっと低い……。
――何なんだ?
茂みを抜け、高台に出た。理生を背後に隠し、杖を握る手に力を込める。
「大丈夫だから、理生。僕が、君を、守るから――」
ウーワアァン!
そしてついに、ハリーの「受難」が姿を見せた。
思わず息を呑む。理生は悲鳴を上げてハリーの左腕にしがみついた。ガタガタと震えているのがわかる。
それもそうだろう。それはハリーさえ見たことのない魔法生物だった。
頭はライオン、胴体はヤギ、そしてその尻尾は――認めたくはないが、ブロンズ色の棘がある尾は、ドラゴンのもののようだった。口から血を流しているのは、動物を襲ったからなのだろう。茶色い毛が口の周りに付着していた。
――待てよ。
ハリーは記憶の底に引っ掛かるものを感じた。頭はライオン、胴体はヤギ、尾は――。
「ねえハーマイオニー、問四ってマンティコアであってるよな?頭がライオンだろ、あれ」
「違うわよロン。もう、あなたが『魔法生物飼育学』落としたらハグリッドが悲しむわよ――マンティコアは頭がヒトで胴体がライオン、尾はサソリ。問四の答えは、あなたが授業中にハグリッドがすぐ手に入れそうだって笑っていた、あれよ。頭はライオン、胴体はヤギ、そして尾がドラゴンの――」
「キメラ……」
ハリーは茫然として呟いた。
――確か、キメラはギリシャの怪物のはずだ。それが何で日本に?それにハリーの記憶に間違いがなければ、キメラは大変狂暴で血を好み、退治した例は一件しかなかったはず。
「何が『魔法生物飼育学』をちゃんと勉強していれば大丈夫、だ……!」
キメラから目をそらさずにひとり毒づいた。理生がますます強くハリーの腕を握った。
「理生。僕は君を信じてる。だから君も僕を信じて――」
返事を聞いている猶予はなかった。ハリーは杖を振るった。
「アクシオ!神野家の箒!」
バゴン、と何かがぶつかる音がした。続いて一本の箒が、凄まじい勢いで風を切ってハリーの手の中に飛び込んできた。
「理生、乗って!僕に掴まって!」
すぐさまその箒に跨り、目を丸くしている理生を乗せると、ふたりは夜空に舞いあがった。理生は驚いて声も出ないようだった。
「絶対腕を離さないで!」
キメラが咆哮を上げて飛びかかってきたのはその直後だった。キメラに翼がなくて本当に良かった!ハリーはとりあえず人目につかない程度の高さに上がり、さらに急降下して神野家の裏庭に着地し、理生を箒から下ろした。
「ハリー」
ぜいぜいと呼吸しながら理生は何か言おうとしたが、ハリーはそれを阻んだ。箒に乗り、宙に浮かす。すでに浴衣は着崩れて悲惨なことになっていたが、そんなことにかまっていられない。
「ハリー」
もう一度名前を呼ばれた。ハリーは理生の顔を見た。そこにはもはや驚きも戸惑いもなく、ただハリーのことを心配してくれているのがわかった。
「僕は必ず戻ってくるから。信じて、待っていて、理生」
理生はじっとハリーの目を見つめ、こっくりとうなづいた。
――そして再びハリーは空へと舞い上がった。
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