2.Messiah
 どうも自分は興味関心のあるものにしか意識が行き届かないらしいと再確認することになったのは、コートが一着足りないことに気づいた明くる日だった。なぜ足りないのか、箪笥の前で考えること数秒。ようやく、ノエルはコートを赤毛の子に貸してあげていたことを思い出した。
「あー、そうだった」
「何が?」
 同室の友人に声をかけられたが、すぐさま「何でもない」と答えた。正義感の強そうな子だったし、きっと返しに来るだろう。
 そして、その予想が外れることはなかった。……少々、不本意な形ではあったけれど。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ノエル!」
 午後の最後の授業が終わった後のことだった。廊下を歩いている最中、聞き慣れた声に呼び止められた。 
「話があるの」
 一体何度聞かされた台詞だろう?ノエルは途端にどっと疲れを感じた。
 アイリーン・プレスコットは同じスリザリン生で、ノエルよりひとつ年上だ。おとなしそうな外見で、密かに男子生徒に人気があるのだが、ノエルはここのところ外見とは裏腹な彼女の性格に悩まされていた。
「ごめん、アイリーン。君の気持ちは本当に嬉しいよ。だけど──」
 この台詞も、もう何度目だろうか。『女性にはすべからく優しく』という家訓が身体に染みついているものの、最初の頃の誠意はもうほとんど残っていなかった。
「付き合う気はないって言うんでしょう。もう聞き飽きたわ。だから何度も言ってるじゃない、本当のこと教えてくれたら諦めるって」
 全部本当のことなんだけどなあ。ため息をついて困り果てていると、アイリーンは諦めるどころか、ますます近づいてきて──まつげの上の涙まではっきり見えるくらいに顔を近づけてきた。
「好きな人がいないなら、少しだけでいいから私と付き合って。それくらい、いいでしょう?ねえ、ノエル、お願いよ……」 
「ちょ、ちょっと……」
 ノエルは大きく後ずさった拍子に、壁に頭をぶつけてクラクラした。それでもお構いなしにアイリーンは近づいてくる。
 ……まずい、貞操の危機だ。
「ノエル!」
 凛とした声が廊下に響いた。助かった、と声のした方を見ると、そこには昨日の女の子が立っていた。
「探してたのよ。いつまでたっても約束の場所にこないんだもの!」
 まだ一度しか会話したことがないなんて嘘のように、親しげな態度だ。一瞬、瞳と瞳がかち合った。それでピンときたノエルは、さも約束をしていたのを忘れてた、とばかりに手を振り返した。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと友達と話してたからさ。今行くよ」
 滅多に見せないような軽い身のこなしでアイリーンから逃れると、ノエルはぎこちない笑顔を作った。
「じゃあね、アイリーン」
 もう一度振り返ったら鬼のような形相のアイリーンがいるような気がした──ノエルは救世主の手を取って、急ぎ足でその場を去った。
 中庭までくると、やっとノエルは立ち止まった。ここなら人目もあるし大丈夫だろう。ホッとして後ろを向くと、女の子とまだ手をつないだままのことに気づいて、あわてて振りほどいた。
「ありがとう。おかげで助かった」
「昨日のお返しよ」
 女の子は事も無げに言った。
「あの子、六年生のプレスコットでしょう。おとなしそうに見えてしつこいので有名よ。さすがスリザリンよね──あなた、嘘泣きなんかに騙されて!」
 別に騙されたわけじゃない、と言おうとしたがその気が失せた。その代わり、にっこり笑って女の子に言った。
「君ってさ、とっても格好いいよ」
「お褒めにあずかり光栄ね」
 女の子はベンチに腰掛けた。燃えるような赤毛が黒いローブによく映える。ノエルは思わず驚くほど透明な緑の瞳を覗き込んだ。
「私、リリー・エヴァンズよ。グリフィンドール」
「リリーか。よろしく」
 するとリリーは眉と眉をくっつけて、ものすごいしかめっ面をした。せっかくの美人が台無しだ。
「あなたって不思議な人ね。聞こえなかった?私、グリフィンドールなのよ」
「うん、聞いてたよ。俺はスリザリン」
「知ってるわ」
 知っている?ノエルが不思議に思って目をぱちくりさせると、リリーはニヤッと笑った。
「あなた、ハンサムでしょう。だから女の子の話題に上りやすいのよ。名前は知ってたわ」
「そうなのか?」
 初めて聞く自分のニュースにノエルはあっけにとられた。女の子はたいてい不可解だ。いつも集団で固まっていて、こっちを見てくすくす笑いをしている──でも、まさか、自分がそういう風に見られていたなんて……。ノエルは何だか恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになって、リリーから視線を反らした。
「やっぱりあなた、不思議だわ」
「何が?」
「普通、スリザリンはグリフィンドールって聞いただけで眉をひそめるわよ。なのに、あなたちっとも動じないんだもの!」
 ああ、そういうことか。合点がいったノエルは、どう言ったものかといったん空を仰ぎ見た。
「残念ながら──確かに、わがスリザリンとそちらさんのグリフィンドールは仲むつまじいとは言い難い」
 それは誰の目にも明らかだ。普段からいがみ合いは絶えないし、クィディッチの試合の前ともなると取っ組み合いのケンカが起きることもしょっちゅうだ。それに、もっと決定的な理由──闇の魔法使いの思想がスリザリンでは色濃く、今の不安定な情勢でますますその勢力が広まっているという事実が、正義漢の多いグリフィンドールとの対立をさらに深いものにしていた。
「だが俺個人となると話は別だ。わざわざ貴重な時間と体力を使ってまでいがみ合うなんて馬鹿馬鹿しいよ」
 少なくとも、ホグワーツは安全だし。のんきな言葉で本音を言うと、リリーは目を丸くした。
「スリザリンには、あなたみたいな人もいるのね。……知らなかったわ」
「少数派だけどね」
だからこそ団体行動は苦手だし、人付き合いも達者ではない。昨日のリリーのように胸のスカッとするようなケンカすらできない。ノエルには、目の前のリリーが少し眩しく見えた。
「そういえば、風邪は──いや、大丈夫そうだね」
「ええ、あなたのおかげで」
 リリーはにっこりと健康そのものの笑顔で答えた。
「昨日──君も大変だな、あのポッターにあんなに好かれて」
 ノエルが本気の同情を込めて言うと、リリーは途端にプリプリ怒り出した。
「ああ、全くもう──本当、冗談じゃないわ!あの腐れポッターは!同じ寮でさえなかったら、クィディッチの試合中にあの世にも素敵な頭と箒に鬼火を仕掛けてやるんだけど!」
 ノエルはくすくす笑った。あのポッターにここまで言えるのは、このリリー以外にいないだろう。
「それより、声を掛けておいて悪いんだけど、昨日借りたマント、まだ洗濯終わってないの」
 だから明日時間もらえるかしら、というリリーに、ノエルはのんびり言った。
「ああ、いつでもいいから。余分にあるし──」
「だめよ!明日、返しに行くわ」
 リリーはきっぱりと言った。ノエルにはそれを断る理由もなかった。ふたりは明日の放課後、図書館で待ち合わせる約束をして別れた。



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