気づくと、ノエルは白い霧の中にいた。
――ああ、夢かな。
ぼんやりする頭でそう考える。それなのに、夢の中の自分はここが何処かわからず戸惑っているようだった。
突然、霧が晴れた。湖のほとりに、誰かが座っている。黒髪の、小さな少年だ。彼は見知らぬ男に話しかけられ、色とりどりの飴をもらって、笑っている――。
それが幼い時の自分だと気づいた時、既に男の姿は消えていた。誰だったのか、見当もつかない。ノエルがきょろきょろとあたりを見回しているうちに、少年の姿もなくなっていた。
その代わり、赤毛の少女が膝を抱えてうずくまっていた。慰めようと駆け寄るのだが、どうしてだか手が届かず、声も出ない。少女は肩を震わせ泣いている。
――泣かないで。
――ごめん。謝るから、泣かないで……。
言葉にならないのに、少女は何か感じたらしく、顔を上げてこちらを見た。
「リリー」
やっと声が出た――と思ったら急に意識が浮上し、重力を感じた。ぼんやりしながら目を開けると、明るい緑色の瞳が見えた。
――ああ、良かった。泣いてない。
ノエルは穏やかに微笑んだ。そし霞みがかった意識のまま、豊かな赤毛に手を伸ばし、胸の中へと引っ張りこむ。
「きゃ……!」
小さな悲鳴が上がったが、それは嫌悪のためではなく、ただ驚いただけのようだった。それにしても――夢の中だというのに、腕の中の温もりは本物そっくりだ。
「んー……」
柔らかな身体を抱きしめ、うっとりしながら髪の匂いを嗅ぐ。気持ちいい。何で女の子っていつもいい匂いがするんだろう。この夢、しばらく覚めないでほしいな――と思いつつ、本能のまま首筋に唇を這わせる。
「ちょっと……ノエル!」
びくりと反応する身体も、慌てた声もリアルだ。ノエルはますます気分を良くし、グリフィンドールのネクタイを緩めようとした――。
「ノエル、起きて!――もう!……えいっ」
「いてっ」
ぎゅっと鼻を摘ままれた。その痛みに意識が覚醒する。
腕の中にはリリー。背景は医務室。そして自分はベッドの上。
――あれ?……もしかして……。
「……リリー?……本物?」
「当たり前じゃない!」
顔を真っ赤にしながらリリーは答えた。どうやら、寝惚けていたらしい。
「そっか」
ノエルはじっとリリーを見つめた。何だか、とても久しぶりな気がする。そう言えば、ここ最近避けられていたんだっけ。
でも、そんなことすら何だかどうでもいいことのように思えてきた。
「……良かった」
もう一度ぎゅっと抱きしめる。リリーがこの腕の中にいる。そのことがとても嬉しかった。
リリーは抵抗しなかった。それどころか、ノエルの背に手を回してきた。
「心配したんだから」
耳元で、震えながらリリーは言った。
「頭を打って気絶したって聞いて、死ぬほど心配したんだから――!」
たおやかな腕がきつくノエルを抱き寄せた。
色んな事があり過ぎたせいだろう。言葉が見つからない。たくさん、聞いてもらいたいことがあったはずなのに――。
「……ごめん」
口を衝いて出てきたのはそれだけだった。また言い足りないと開かれた唇を塞いで気持ちを伝える。自分の中に渦巻く気持ちはひどく曖昧でいくつもの色が混じり合っていて、言葉にしたら薄っぺらいものにしかならないような気がした。
「どうして」
合間に、掠れる声でリリーが尋ねた。
「あなたが――謝るの」
零距離のまま、赤く腫らした目を見つめる。
「私が勝手に、嫉妬して――わかってたのに――」
「嫌な思いをさせたのは事実だから」
言い訳をするのは嫌だった。思い出させて、また同じ思いをさせるのも。
「……許してくれる?」
ノエルの問いに、今度はリリーが唇を奪う。ゆっくりとベッドに押し倒され、ノエルは自分が許されたことを知った。
「ノエル」
リリーに呼ばれる自分の名前は、まるで神聖な呪文のように思えた。
吐息が熱い。身体が熱い。胸が苦しい……。
この反応は、この感情は、何と言うのだろう。とても幸せなのに、身を切られるように痛む、この不思議な現象は。
「君が好きだ」
苦しげな声で、ノエルは囁いた。
「君しかいらない……」
リリーの瞳が大きく見開かれ、透明な涙で溢れた。その目元に口付けて涙を舐め取る。この辺で止めておかないとまずいことになる――とかろうじて残っていた理性が主張していたのだが、そんなことを知らないリリーは感激のあまり柔らかい身体をぎゅっと押し付けてきた。
と、突然、何の遠慮もなしにカーテンが開けられた。
「よ、青春だねぇ」
マイクロフトだった。リリーが慌てて飛び退く。温もりが離れてしまったのは残念だったが、親友が見舞いに来てくれて嬉しくないはずがない。
「マイク」
ノエルは親友に笑顔を見せた。
「よう。……何だ、大丈夫そうだな」
含みを持った目が、にやりと笑った。
「おかげさまで」
マイクロフトは近くにあった椅子を二つ持ってきて、そのひとつにリリーを座らせると、自分ももうひとつの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「それにしても、いったい何があったんだ?ポッターがスネイプを助け出したとか何とか……お前がそれに巻き込まれたとか、色んな噂が飛び交ってるぞ」
「私も聞きたいわ。最初、あなたが死にかけたって聞いたんだもの」
ノエルはどう答えたものかと考え込んだ。マイクロフトやリリーになら話しても他言はしないだろうが、ダンブルドアとの約束がある。それにリーマスは極力人狼だということを知られたくないだろう。
結局、ノエルはリーマスのことには触れず、ブラックが焚きつけたせいで、セブルスが「暴れ柳」の近くにある危険な抜け道に入っていき、それをポッターが止めにきたのだと説明した。ノエルはブラックとセブルスの会話を聞き、止めようと追いかけたのだが、そうこうしているうちに「暴れ柳」の枝で打たれて気を失ったのだと語ると、リリーは青ざめ、マイクロフトはケラケラと笑った。
「お前らしいな!」
「嬉しくないよ、それ」
「何でそんな危険なことをしたの!」
リリーは蒼白な表情のまま詰め寄った。心配してくれていることが、握られた手から伝わってきた。
「さあ。何でかな……」
言葉を濁して笑う。でも本当は、リリーの顔を見ていてひとつ思い至ることがあった。
――きっと、セブルスを助けたのは……リリーの幼馴染だからだ。彼が傷ついたら、リリーが悲しむと、心の何処かでそう思っていたんだ……。
そう、結局、俺は自分のためにあんな無茶な行動をしたのだ。リリーの悲しむ顔を見たくないと、そう思ったから――。
「もうこんな無茶はしないって約束して!」
リリーは柳眉を逆立てて迫った。
「おいおい、リリー。男は冒険的なくらいでちょうどいいんだぜ?」
「無茶と冒険は違います!」
すっかり元の調子に戻ったリリーに、ノエルはくすくす笑って言った。
「うん……できるだけ、努力はするよ」
けれど、守りたい、大切な人のためなら――きっと俺は、多少の無茶を顧みないだろう。
ノエルはそんな予感に捉われ、親友と口論する目の前の恋人を見つめた。
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