15.Kiss

 朝の大広間は、いつものように生徒たちで溢れていた。ノエルが入り口に現れるとあちこちの席――特にグリフィンドールの席がざわめいた。奥に進もうとするノエルの肩を、顔見知りのスリザリン生が次々に叩き、「やったな!」「見直したぜ」と賞賛を贈ってくる。普段のノエルならばそれが昨夜のポッターとの騒動が噂になっているせいだと気づくことができただろうが、今日に限ってはただただ迷惑に思うばかりだった。
「おい、おいおいおい!」
 そんなノエルを見つけて捕まえたのは、レイブンクローのマイクロフトだった。今日は長い髪を一本の三つ編みにして垂らしている。
「ノエル、聞いたぜ!何とまあ、あのポッターとやり合ったって?それで医務室送りにしちまったって?全く、たいした奴だよお前は!」
 マイクロフトは興奮のあまりノエルの髪をくしゃくしゃにした。
「マイク、やめてくれ。ポッターになる」
「バカ、お前の極上毛髪がそう簡単にあんな鳥の巣になるかよ!」
 マイクロフトは豪快に笑ってさらに髪を掻き回した。しかし今はそれどころではない。
「もっと詳しいこと聞かせろよ。今日はレイブンクローの席で食おう」
「ごめん、マイク、今は無理」
「ん、何で?」
「アイリーンに会わなきゃ」
「何かあったのか?……そういえば何か、お前変だぞ。目つきがとろんとしてるし、顔赤いし」
「いや、アイリーンに会いたくてたまらないだけだから。じゃあまた」
「そうか。じゃあな――っておい?!」
 マイクロフトが異変に気づいた時にはもう遅かった。ノエルはスリザリンの席へ直進し、金色の豊かな巻き毛を見つけていた。
「おはよう、ノエル」
 アイリーンはニッコリと微笑んだ。ノエルは黙ったまま、先に座っていた下級生を押しのけてアイリーンの隣に割り込んだ。甘いコロンの香りが鼻孔をくすぐる。身体が熱い。胸が苦しい。
「ノエル」
 アイリーンがくりくりとした大きな瞳で見上げながらノエルの手を握り、足を絡ませた。
 いつもなら必死で逃げるのに、ノエルは動けなかった。むしろもっとその温もりを欲している――もっと触れたい……。
「ノエル、私、今日新しい口紅にしたのよ。似合う?」
「アイリーンには何だって似合う」
 いつの間にかノエルはアイリーンの手を握り返していた。
 晴れ渡った空を閉じ込めたような瞳、そこに影を落とす長いまつげ、陶器のような白い肌、さくらんぼの唇……。
 ――ああ、本当に可愛い。どうして俺はこんな可愛い子の告白を何度も断ってたんだろう?
 ノエルは靄のかかったような、ふわふわした感覚に陥っていた。そのため、衆目のただ中に自分達がいることに全く気づいていなかった。深い色をした双眸は、今やただアイリーンだけを捕らえていた。
「ノエル、私のこと好き?」
「ああ」
 何を当たり前のことを言っているんだろう。ずっと前から、目の前にいるこの子のことが好きだった。
「本当?」
「もちろん。君が好きだよ、アイリーン」
 優しく微笑むと、金色の巻き毛がノエルの胸の中に飛び込んで来た。感極まった様子のアイリーンの背に両手を回す。
「ノエル、好き。あなたが、大好き……」
 アイリーンはまなじりからいくつもの大粒の涙を零しながら、何度も同じ言葉を繰り返した。ノエルは脳随に甘い痺れを感じていた。何も考えられない。ただこの気持ち良さだけを感じていたい。
「ノエル……」
 アイリーンは顔を上げると、肩に回っていた手を首に絡め、そっと瞼を閉ざした。
 キィーン。
 何か不快な音が頭の中で響いた。続いて、これからの行為を拒絶しなければならない、という強い抵抗が勝手に生まれた。頭の奥深く、胸の奥底から、警告のようなうねりがもたげてくる。
 ――何で?
 豊かな赤毛。緑のアーモンド型の瞳。夕日に照らされた笑顔。勝ち気で明るくて、負けず嫌いで、曲がったことが大嫌いで――。
 誰のことだ?
 ノエルはアイリーンの吐息を鼻に感じながら戸惑っていた。何か途轍もない間違いを犯しているような気分だ。
 ――俺は……? 
 その時、アイリーンが痺れを切らしてノエルの頭を引き寄せた。
 唇と唇が触れ合う感触にノエルの思考は霧散した。何も考えられず、ただ身体が求めるがままに柔らかな感触を求め、ひとときの官能に溺れた。その合間に零れる声は朝の大広間には似つかわしくないほど刺激的なもので、いつしか周りの生徒たちがあんぐりと口を開けながらその行為の一部始終をじっくりと見ていたが、ノエルは全く気付くことなく、アイリーンの身体から力が抜けるまで激しいキスを続けた。
 そしてやっと唇が離れた瞬間、いきなりノエルは頭上から鉄拳を食らった。
「何やってんだこのバカ!!」
 マイクロフトだった。ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、ノエルの襟元を掴み上げる。
「いった……!何するんだよ、マイク!」
「お前、アイリーンから何か食べ物か飲み物もらっただろう」
 訳が分からない。ノエルは親友の手酷い仕打ちに混乱したまま頷いた。
「バレンタインに、お菓子をもらった。でも、いきなり、何?」
 ノエルの襟を掴んだまま、マイクロフトは鋭い視線をアイリーンに向けた。
「使ったな?――愛の妙薬を」
 アイリーンは力が抜けたままの様子だったが、その言葉に顔色を変えた。みるみる青ざめていくその顔もまた可愛らしい。
「な、何のことかしら――」
「わかっていると思うけど、愛の妙薬は本当の愛をもたらさない。虚しくなるだけだ」
「マイク、彼女を傷つけるようなら――」
「お前は黙ってろこの注意力ゼロの色ボケバカ!!」
 口を出したノエルに再びマイクロフトの鉄槌が下った。ノエルはレイブンクローきってのチェィサーの拳に呻いた。
「ホグワーツにおいて愛の妙薬の流通は禁止されている。本来なら、このことをスラグホーンとダンブルドアに報告すべきだが――」
「待って!それだけは!」
「認めたな」
 マイクロフトはじっとアイリーンの顔を見下ろし、重い溜息を吐き出した。
「心配するな。言わない――その代わり、考えろ。薬の効果が切れたらノエルはどう思うかな」
 それからマイクロフトは、ノエルの肩をむんずと掴んだ。小刻みに震えるアイリーンが心配で目を離せないでいるのもおかまいなしに、マイクロフトはノエルを掴みながら大広間を後にした。
「何処行くんだよ?待てよ、アイリーンを置いていくのか?」
「医務室だよバカ!」
 マイクロフトは思いっきり怒鳴って顔をしかめた。さっきの光景を見ていたのはマイクロフトだけではなかった。大広間にいた生徒ほぼ全員だ。そしてマイクロフトは自分がノエルを殴った時、グリフィントールの長い赤毛の生徒が走って外に出て行ったのを見た。
「全く、こんなにお節介焼いたのは生まれて初めてだ!」
 マイクロフトは思わずそう毒づかないではいられなかったが、愛の妙薬のせいでアイリーンのことだけしか頭にないノエルには、まったく響いていなかった。






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