Prologue

 一陣の風が吹き抜けた。
 少女の手の三角帽が揺れる。長い黒髪が棚引く。何をするでもなしに、柳の木に背を預け、ただ景色を眺めていた。
 ――この景色も、もう見納めになるかもしれない。
 そう思うと、とても寂しい。少女は珍しく素直にその感傷を認めた。彼女にとっては、あの薄暗く、壮大だが柵に縛られた家よりも、スリザリンの地下寮の方が家というのに相応しい場所だった。
 ――何より、ここには、自由があった。
 少女は、今日、このホグワーツを出ていく。
 それはひとつの終わりであり、始まり。そしてまた、ひとつの分岐点であった。
 ふと目を細める。ひとりの少年がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。すらりとした長身は、それだけで絵になった。顔を見なくてもわかる。七年間を寄り添うように過ごした、彼女の片割れ。少女と同じ色の髪を風に遊ばれながら、それでも少年は歩みを止めない。
「やあ」
 少年は軽く手を上げた。少女は気怠そうに吐息を漏らす。
 何故ここかわかったのか、そんな問いは無意味だ。天才というものが存在するなら、それは彼を指す言葉だと知っていた。
「立っているだけで綺麗だね」
「歯の浮くようなお世辞はやめて頂戴。悪寒がするわ」
「厳しいね、スリザリンの女王様は」
 くすくすと笑うその顔は、客観的に見ても恐ろしいほど整っていた。少年らしい愛らしさと、青年の逞しさ。その過渡期に見せる一瞬の美しさを、彼は見事に体現していた。
「もう、そんな名前でからかわれることもなくなるわ」
「そうだね。君がスニッチをとって満面の笑顔を見せることもなくなるね」
 少年は気さくに笑いながら少女の髪を撫でた。
「……やめて」
「いつか君は僕を捕まえにくるかな?」
 にっこりと笑う。その顔は、作り物だ。振りほどこうとした少女の手を握られる。
「馬鹿ね。あんなところに本気で勤めるつもりなら、そう遠くない未来にそうなるわよ」
「ボージン・アンド・バークスは、それなりに利用できるさ。そんな悪いところじゃない。君だって知ってるだろう?」
「仮にも主席が就職するようなところじゃないわ」
「ああ、もうひとりの主席は魔法省の闇祓い様だものね?」
「茶化さないで、リドル」
 すると少年――トム・マールヴォロ・リドルは、表情を一変させた。瞳が細められ、鮮血を思わせる赤に色が変わっていく。
「その名は捨てた」
 木々がざわめく。まるで空気が重くなったかのような感覚に、少女は息を呑む。
「いつか、知る者はいなくなる。その代わり――」
 自信家で、傲慢な少年の奢り。そう吐き捨てることができないほど、リドルは類稀な能力を持っていた。
「最も偉大な闇の魔法使いとして、僕の名は轟くだろう。その名を口にすることにすら恐怖を与えるような魔法使いに、僕はなる。そう――」
「ヴォルデモート卿として」
 少女の答えに、リドルはにっこりと笑った。底冷えのするような笑顔。
「本当に僕についてくる気はないのかい?」
「何度訊かれても――答えは同じよ。あなたのことは――」
 少女は目を伏せた。一刀両断するには、あまりにも長く傍に居過ぎた。
「とても大事な――親友だと思ってる。でも、その考え方は、私の正義じゃない」
「僕は君が欲しい」
 リドルの瞳が揺れた。きっと、それは彼の本音であり、傲慢であり、甘えであり――もっと突き詰れば、深く悲しい何かなのだろうけれど――それを理解できなければ、全身でわかろうとしなければ、意味がない。
「私も――リドルが欲しい。でも、それはあなたじゃないわ、ヴォルデモートとしての、あなたでは」
 リドルは拒まれたことに大した衝撃は受けていないようだった。寂しげな笑みを浮かべ、視線が交わる。
「……わかってたよ。そう言うのは」
 するとリドルは意外なことを言いだした。
「じゃあせめて最後に――今日、ホグワーツを卒業する記念として――君の杖を見せてくれないか」
「……何故?」
「もし、杖を交えるような時が来ても、君の杖だけは覚えていたい」
 真剣な眼差しだった。開心術を使ってみても、どうせ彼のことだ、常に閉心術を使っているも同然だろう。それに、親友の最後の願いを無碍にするのはあまりに無粋だ。
「いいわ。その代わり、あなたのも見せて」
「もちろん」
 少女は自分の杖を取り出し、リドルに渡した。リドルもすぐに杖をよこす。
「イチイの木ね。芯は不死鳥、だったかしら?」
「すごいね、覚えてたんだ。君のはレバノン杉だったね。芯は……」
「ユニコーンよ」
 少女は渡された杖をくるりと回し、軽く振った。するとポン、と音を立てて杖先から大量の薔薇が飛び出した。
「やっぱり君には薔薇が似合う。血のように赤い薔薇が」
 リドルは満足げに微笑み、薔薇にまみれた少女の髪にさらに一輪の薔薇を差し込んだ。
「これ、本物の杖じゃないわね」
「よくわかったね」
「重くないもの。それに、力を感じない」
 妙な悪戯だ。あまりリドルらしくない。少女は薔薇の花びらをローブから叩き落し、リドルに向かって掌を見せた。
「もういいでしょう?返して」
「――血のように赤い、と言えば」
 少女の訴えを無視してリドルは語る。その手にはまだ少女の杖が握られていた。
「君は知っているかい?マグルのお伽話の、『眠り姫』の話を」
 首を傾げる少女に近づきながら、リドルは続けた。
「魔女も出てくる話でね。ある国にお姫様が生まれるんだ。そのお祝いにと招かれた十二人の魔女と王様たちが姫に贈り物をしていると、最後の贈り物をしようとした時に招かれなかった魔女が――十三番目の魔女がやってきて、姫に呪いをかける。姫は十六歳の誕生日に、糸車の針に指を刺して、死ぬと。ただ、十二番目の魔女の贈り物がまだだった。その魔女は、姫は死なず、永き眠りにつくが、やがて愛する者のキスで目を覚ますと言う。そしてその通り、姫は糸車の針に指を刺し、血が滴ったと思うなり百年の眠りに就く。そして王子のキスで目覚め、ハッピーエンドとなる」
 マグルの童話をリドルが嬉々として語るなんておかしい。少女は嫌な予感に背筋が寒くなった。まさか――。
「でもね?考えてもみてごらん。十三番目の魔女がいなかったら、姫は王子と逢えなかったよね?だから、彼女はいいことをしたとも言える」
「――何が言いたいの」
 今やリドルは唇が触れそうなほど近くに寄っていた。美しい顔立ちが、恍惚に輝いている。赤い瞳に映る自分の姿を見ながら、少女は己の迂闊さを呪った。
「僕は、考えた」
 彼の吐息が耳にかかる。
「君が欲しい。その事実は変わらない。でも君はそれに応じない。それは何故か?僕にいまだ強大な権力がないからだ。確かな証がないからだ。ならば――」
 両腕を掴まれる。瞳はますます赤くなり――。
「創ってしまえばいい。君が僕に応じざるをえなくなる、その環境を――未来を」
「それこそ百年かかるわね。いや、千年かしら?」
 少女はなおも悪態をつく。
「見縊るな。そうだな――その四分の一もあれば確実だ。君には、その期間、眠っていてもらう」
 突きつけられた杖に、少女は身動きができない。リドルは――本気だった。そしてすでに彼が禁じられた力を振るっていることを少女は身をもって知っていた。彼は、人でさえ殺せる。しかも、何の躊躇いもなく。
「――ホグワーツ特急はどうする気?」
「ポリジュース薬を使う。あれを何度も味わうのは、頂けないが。君を演じきることくらい、わけないさ」
 何か、何か手段はないか。少女は必死に考えを巡らせた。誰か――。
「無駄だよ」
 リドルはくすりと笑い、人好きのする笑みを浮かべる。
「――こんな馬鹿な真似、ダンブルドアが」
「気付かないさ。ハグリッドの時だってそうだった」
 そうやってあいつを嗤っただろう?そう言われれば押し黙るほかない。杖を持つ手が、少女の頬を撫でる。
「君の、負けだよ」
「――やめて」
「大丈夫。丁寧に扱うよ。僕だけの――」
「やめなさい、リドル!」
 一際高く叫ぶ。しかし、それは覆いかぶさった唇に閉じ込められた。交わる吐息に、少女は杖さえもフェイクであったことを知った。これは、眠り薬の味――!
「お休み、僕の眠り姫」
 囁かれたその言葉が、少女の最後の記憶になった。







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