――朝焼けは好きだ。特に、空高く箒に跨りながら見下ろす朝焼けは特別だ。
昨日取り戻した愛箒シルバーレイで、ホグワーツ上空を一直線に飛びながらシャーロットは物思いに耽っていた。
考えることは山のようにあった。リドルのこと、彼を打ち倒したハリー・ポッターという少年のこと、フィンのこと、無実だというフィンの今の主のこと、そしてこれからのこと――特に、積年の望みどおり闇祓いの道に進むか、それともホグワーツに残って教鞭を取るかの選択について。
この二択は大きな問題だった。闇祓いは激務だ。片手間にできる仕事ではない。スクリムジョールは厳しく過酷な任務でも平気で押しつけるタイプに見えた。しかし、続けていればいつかヴォルデモートと相見える日もくるだろう。そう、いつかは。だが、それでは――遅いのだ。
胸に刻まれた緋色の印――これは何なのか。命を削るものなのか、そうでないのか。真相をできるだけ早急に調べなくてはならない。
――かといって、ダンブルドアの駒のひとつになるのも、癪なのよね。
シャーロットは両手を離したままくるりと一回転した。
アルバス・ダンブルドアという人物を完全に信用できるか。シャーロットの回答は否だった。あの御仁が頭の切れる大物であることは認めるが、やたらと愛などというものを説くことに、シャーロットは以前から嫌悪感を抱いていた。それに、周りの人間がむやみに「ダンブルドアだから」「ダンブルドアのすることだから」と持ち上げているのも好きではない。この前の買い物も、スネイプという監視役をつけてきた。きっと闇祓いとして魔法省に行っても、何らかの手段で動向を探られることになるだろう。
それならば、いっそのこと……。
シャーロットは箒の柄の上に立ち、しばらくぼうっとした後、そのまま箒から飛び降りた。下は湖で、水面がキラキラと朝日を反射していた。身を切る風を感じながら、一直線に落ちて行く感覚を味わう。どんどん湖面が近づいてくる。百メートル、五十メートル、三十、二十、十、九、八、七、……三、二。そして後一メートルのところで横から滑りこんできた箒を掴み、再び跨る。湖面に水飛沫を上げさせながら低空を疾走すると、マーピープルが何事かと湖から顔を出してきた。
それからシャーロットは禁じられた森の上を飛んだ。ケンタウルスの群れや天馬の群れの位置、貴重な花や木の在処を確認し、クルクルと飛び回る。そして森の終わりに小屋を見つけて――シャーロットはピタッと箒を止めた。
大男が小屋から出てきて、井戸の水を汲んでいた。巨大な身体、もじゃもじゃとした黒ひげと黒髪、そしてつぶらな瞳――森番らしきその人物に、シャーロットは見覚えがあった。
「センチエイト!」
五感強化の呪文を唱え、耳を澄ます。
「おお、ファング、すまんすまん。何、今飯をくれてやるさ」
聞こえてきた声に、シャーロットは息を呑んだ。
間違いない。
あれは――ルビウス・ハグリッドだ。
シャーロットは背の高いイチイの木の陰に隠れ、様子を見守った。鼓動が速まり、頭が冷える。ハグリッドは大きな犬に餌を与えているところだった。
あの事件の後――ホグワーツの森番として雇われたことは知っていたが、五十年経っても続けているとは。
そう、あの事件。リドルが「秘密の部屋」を開けて少女がバジリスクの犠牲になったあの事件の真相を、シャーロットは知っていた。そしてリドルが犯人としてハグリッドを突き出したことを、黙認したのだ。
罪の意識がなかったと言えば嘘になる。だが、かつてハグリッドが別の危険な動物をホグワーツ校内に持ち込んでいたのは事実だった。あれだって十分に脅威と言えた……。
――いいえ、それは言い訳だわ。
私は、リドルとハグリッドを天秤にかけて、何の迷いもなくリドルを取った。ただそれだけのこと。
ハグリッドが小屋の中に引っ込むと、シャーロットは箒をふらふらさせながら部屋に戻った。
ホグワーツに残るならば、ハグリッドと――傍観した過去の過ちと向かい合わなければならないだろう。
――それでも、私は。
シャーロットはぎゅっと拳を握り、ひとつの決意を胸に秘めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
授業が始まり、多くの生徒が教室に向かう中、シャーロットは校長室を目指していた。ガーゴイル像のところで合言葉を唱え、樫の木でできた扉をノックする。
「入りたまえ」
ダンブルドアは机に座り、手紙に目を通しているところだった。
「心が、決まったのだね?」
「ええ」
透き通ったダンブルドアの瞳を物怖じせずに受け止める。相変わらず敏い御仁だ。
「――この間のお話、謹んで承らせて頂きます」
「そう言ってくれると思っておったよ」
ダンブルドアは口元を緩めて立ち上がった。そしてシャーロットは微笑を湛えたまま、言った。
「だからいい加減、監視を解いて下さいません?自分の身くらい自分で守れますわ」
向かい合う青い瞳がすうっと細められた。
「……監視、というより、見守っていたんじゃがのう」
「マグル界ではプライバシーの権利が大分確立されてきた様子ですが、魔法界では違うようですね」
皮肉を返してもダンブルドアは反応しない。全てを見透かすような瞳に、シャーロットは固く心を閉じる。
「シャーロット、君はまだ若い。そして特殊な状況下におかれ、存在が知られれば間違いなくヴォルデモートに狙われるじゃろう。賢い君のこと、わかっておるはずじゃ」
――そんなこと。言われずとも百も承知だ。
「それゆえにホグワーツでの生活を選んだのです」
そう。監視の目はどこにでもあるならば、いっそその懐に抱かれたままでいた方が良いと、そう判断したのも事実だ。
「ですが、私は自分の行きたいところに行き、したいように行動します。何者にも、私の自由を奪わせはしない。例えそれがアルバス・ダンブルドア、あなたであっても」
自由。
十八年の束縛を耐え、五十年の歳月を代償に得た、唯一のもの。
幼い頃から、どれだけ望み焦がれたか。
これだけは、何者にも侵させない。侵させはしない。
「……それならば儂が君を見守ることも、儂の自由ということじゃ」
さすがに老獪な魔法使いだけあって弁が立つ。予想の範囲内だったが、決して監視を解くとは言わないダンブルドアに、思わずため息が出た。
「――ええ、そうですね。それならば私も自由に振る舞うまでです」
もとより論破するつもりなどなかったが、ただ宣言しておきたかったのだ。
――誰にも私の自由を縛ることなどできない、と。
「それでよい。それでこそ儂の知るシャーロット・ブラックじゃ」
ダンブルドアは微笑みを浮かべると、机の棚から一枚の羊皮紙を取り出し、シャーロットに渡した。
「では、来年度から君を正式にホグワーツの一職員、助教授として迎えよう。これはそのための契約書じゃ。よく目を通しておくれ。来年度は恐らく、『闇の魔術に対する防衛術』の授業と『魔法薬学』の授業で補佐が必要となるじゃろう。君はそれぞれの担当教授と連携し、補佐が必要とされる授業で教鞭を振るうのじゃ」
渡された羊皮紙――契約書にも同じことが書かれていた。一通り読み終わってからシャーロットは首を傾げた。
「『魔法薬学』?それは――スネイプ先生の担当だとお聞きしましたが?」
あの神経質で完璧主義(推測だがほぼ間違いないだろう)のスネイプに、補佐などいるのだろうか。むしろ邪険にされるのが落ちだと思うが。
「うーむ、今説明するのはちと難しいのう。まあ、来年度になれば自然にわかることじゃ。君はこの二科目はことさら得意だったじゃろう?」
「ええ。『占い学』と『マグル学』以外ならどの教科でもかまいません」
シャーロットは疑問を残しつつも丁寧に答えた。「占い学」はもともと素質ありきの学問だ。そして自分にはその稀なる能力はない。「マグル学」は受講していたし得意だったが、マグル出身の者には知識の絶対量で負ける。それ以外の科目なら何でも受け持つことができるだろうとシャーロットは確信していた。
「ふむ、それほどの自信ならば問題なかろう。――ここに、サインを」
渡された黄金の羽根ペンで、シャーロットは自分の名を書き綴った。すると羊皮紙が光り出し、自らクルクルと巻きあがり、ダンブルドアの手の中に飛び込んでいった。
「これで契約成立じゃ。ようこそホグワーツへ、ブラック先生」
差し出された皺まみれの右手を握り返してにっこりと笑う。
「ええ、こちらこそよろしくお願いいたします」
それは、この世にシャーロット・ブラック助教授が生まれた瞬間だった。
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bkm