腹の中
気球に乗った一行は、パウチカムイの砦を通り過ぎ林の中に不時着した。
気球を乗り捨て林の中を降り、滝の見える川岸で腰を下ろした。
杉元の方の傷を見るためである。
「グズグズしてたら追いつかれるぞ」
「杉元の血が止まらない。手当てしないと」
ハツが川の水で手を洗い傷口の血を洗い流していく。
「あいにく薬は化膿止めしか持ち合わせていません」
ハツは、風呂敷の中からちょっとした医療器具を取り出した。
メスやピンが縫われた布に一本づつ入っており、これで銃弾を取り出すつもりのようだ。
「幸い銃弾は傷口から見えています。取り出しますので手ぬぐいを咥えていてください」
麻酔なしの摘出である。
ハツは歯をくいしばるであろう杉元のために手ぬぐいを折りたたんで口元に差し出した。
「いい。痛みには慣れてる」
「念のためです。歯が砕けますよ」
杉元は口の中に無理やり手ぬぐいを詰め込まれる。
吐き捨てようとしたが、薬草を採って戻ってきたアシリパに「杉元ハツのいうこと聞け、チタタプヒンナできなくなったらどうするんだ」と叱られて大人しく手ぬぐいを咥えた。
本当は器具を煮沸消毒でもして治療したかったのだが、時間がないので応急処置しかできない。
ピンで弾を取り出す祭、やはり杉元は歯を食いしばった。
「ぐうっ」といううめき声とともに左胸からどぼどぼと血液が溢れ始める。
ハツは杉元の口から手ぬぐいを抜き取ると、強く傷口に押し当てた。
「レタンノヤ…『ノコギリソウ』を見つけた。歯を揉んで塗れば止血の効果がある」
アシリパが傷口に揉んだノコギリソウを塗っている間に、ハツは荷物の中から包帯を取り出した。
再び手ぬぐいで傷を抑えて、キツめに包帯を巻いていく。
その手早さに、アシリパが「すごいな」と感心したような声を出した。
白石も「ハツちゃん本当に看護婦さんだったんだねぇ」と声をかけた。
ハツは手と器具を川の水で洗うと、また荷物の中に戻した。
それから一行は、針葉樹の林の中へと進み更に東へと向かった。
アシリパはぴったり杉元の傍を歩き、尾形は双眼鏡で背後を警戒する。
間に挟まれた白石とハツは生い茂る草木に足元をすくわれて苦戦していた。
やがて林を抜けひらけた場所へ出ると、足元の草木は減り、むき出しの土や岩が多くなっていた。
空高くそびえる山は、もうじき夏だというのに薄く雪化粧をしている。
当初の予定の通りこの山間を抜けて進んでいく。
しかし。
「見つかった!!」
後ろを歩く尾形の声に、全員が緊張の糸を引き絞った。
「急げッ、大雪山を越えて逃げるしかない」
「マジかよ、この山を?」
距離があるとはいえ、相手は馬に乗っている。
それに引き換えこちらは徒歩だ。
それでも先に進む他なく、一行は傾斜につま先を向けた。
その途端、急に肌を撫でる風向きが変わり天候が崩れ始めた。
決して厚着ではない白石が半纏を胸の前で掻き抱きながら風の冷たさに身を震わせる。
そしてハツも、しまいこんでいた御高祖頭巾を取り出して身体に巻きつけるほど、風は吹き荒んできた。
「どんどん風が強くなる…!」
アシリパが風鳴りに負けじと声を張る。
長い髪が風にさらわれそうに宙を舞った。
流れる雲の速さに、雨も降りそうだと怪訝する。
「残雪に穴を掘って避難するか!?」
杉元も声を張る。山が唸るように吹雪き始めたのだ。
しかし身を隠すほどの雪がなく、一行は風に体を揺さぶられながら考えあぐねる。
すると、白石がぶつぶつと独り言をしながら明後日の方角を見て微笑み始めたのだ。
いち早く気づいたアシリパが、様子がおかしいと誰にともなく訴える。
尾形のすぐ傍で、ハツがカクンと片膝を地面につけた。
寒さに体力を奪われて足に力が入らない。
尾形はハツの腕を掴んで引き上げた。
「風を避ける場所を探すんだ! 低体温症で死んじまうぞ」
白石以外の全員で周囲を見渡す。
すると、一行とそう離れていない距離の場所に、エゾジカが群れをなしていた。
「ユクだッ! 杉元オスを撃て! 大きいのが三頭必要だ!!」
「エゾジカを撃つのか!?」
杉元が担いだ銃に弾を装填している間に、尾形が一発の弾で二等同時に撃ち抜く。
そして次の銃声の後には、逃げようとした群れの中から一匹倒れ込んでいた。
「急いで皮を剥がせッ! 大雑把でいい!!」
アシリパの指示に、杉元と尾形が銃剣を抜いた。
アシリパもマキリを出してエゾジカの腹を割っていく。
ふと顔を上げた杉元が、全裸で踊り狂う白石を視界に捉えた。
「白石を捕まえろ! 低体温症で錯乱しているッ!」
「パウチカムイに取り憑かれた…!」
エゾジカを捌けないハツが全裸の白石の腕を抱き込む形で捕まえる。
自身も寒さで意識が朦朧とした中、とりあえず散らばって風に飛ばされる服の中から一番近くにあったズボンを拾い上げた。
その瞬間、錯乱した白石の手がバシン、とハツの頬を打った。
いち早くエゾジカを捌き上げたアシリパが、丁度それを目撃してしまい「あッ!」と声を上げる。
一瞬だけ、吹雪が収まったような気がした。
頬を抑えて俯くハツのそばで、白石はまだ歌いながら踊り狂っている。
アシリパは、心配しながらも白石の飛んでいく衣服を拾った。
「……しっかりしっせ!!!」
ハツの叱責とともに、パンパーン! と往復ビンタが白石を襲う。
半纏とシャツを拾ったアシリパが、驚いて駆け寄った。
「ハツ…?」
ハツは白石の衣服を持ってきたアシリパに、ありがとうございます、と言って白石にシャツを着せた。
近くを飛んでいくチョッキを拾った杉元も見ていたらしく「…大丈夫?」と声をかける。
「問題ありません」
フラフラとしている白石にチョッキと半纏を着せると、ハツは白石のズボンを履かせた。
「あれ褌は?」と杉元。
「ん? シサムが履いてる白い布のことか?」とアシリパ。
エゾシカを捌き終えた尾形が「放っておけそんなもん」と。
強風に尻餅をついたアシリパを杉元が抱えてエゾジカの体内へ。
引き続きハツはエゾジカの中に白石を詰め込んだ。
だがハツも意識が途切れ途切れになり始め、かじかんだ手に力が入らない。
白石が自分で収まってくれればいいのだが、白石はぼうっとしていてあまりいうことをきいてくれない。
「もたもたするな」
と、尾形が手を貸す。
やっと収まったと思い、自分も白石の入っているエゾジカの中に入ろうとすると、尾形がハツの首の襟を掴んだ。
「そっちは無理だ。こっちに入れ」
残った一等大きいエゾジカの中に、ハツは尾形と二人で入る。
小柄とはいえ、ハツも成人した女故に、尾形とハツは抱き合う形でエゾジカの中に収まった。
ハツは意識が遠のいているのに、獣特有の生臭さに思わずえづいた。
「吐いてみろ。吹雪の中だろうが蹴り出すからな」
ハツの頭の上でぼそりぼそりと言う尾形に、ハツは着物の袖を口に当てて耐えた。
やがて意識は薄らいでいき、外の轟音を耳にしながらもハツは浅い眠りについた。
ハツは夢を見た。
子供の頃の夢だ。
まだ、自分が叔父の家にいた頃の夢。
「二人とも寝たか」
「はい」
叔父と叔母だ。声だけ聞こえる。
「…前に話していた、ハツを父上と母上に引き取ってもらう話、二人に文を送っておいた」
「…はい」
「すまなかったな、兄たちから話に聞いていたとはいえ、お前には苦労かけたろう」
「…」
そうだ、この後祖父母の家に厄介になった。
従兄弟の面倒見るの、嫌いじゃなかったのに。
「力及ばず…、申し訳ございません。でもハツのせいであの子まで近所の笑い者にされていると思うと、どうしても不憫で…!」
「いや、お前が謝ることじゃない。姪…、実の妹の娘とはいえ何処の馬の骨ともわからない男の血が入ってるんだ」
仕方のないことだ、と叔父は言った。
「…ちちうえ、ははうえ」
「! どうしましたか、お手洗いですか?」
「さむくておきてしまいました…」
「まぁ」
「いや、やけに静かだと思ったら雪が降ってるな」
「ゆき? みとうございます」
「いけません、寒くて眠れなくなりますよ。さぁ、母上と一緒に床に入りましょう。温めてあげます」
寝床に戻ってきた従兄弟と叔母と足音に、ハツは寝たふりをした。
「ははうえあたたかい…」
「ふふ、母上は暖かいでしょう」
「おやすみなさい…」
「はい、おやすみなさい」
その声を確かに聴きながら、ハツは目を固く閉じた。
いくら固く目を閉じても、耳までは塞げない。
ハツには母親がいない。ハツを産んだ産褥で死んでしまったからだ。
母親がいたのなら父親もいるはず、とハツは父親を探した。
ハツの父親を誰も知らなかったし、父親も見つからなかった。
残ったのは、卑しい噂と温もりを分かち合うことのない小さな体だけ…。
どんなに寒くても、ハツには温めてくれる親などいない。
ハツは寒さに身を震わせる。
うとうとと眠りについた尾形がそれに気づいて、外装を引きハツの体を包み込んだ。
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