何やっとんじゃ
「団子屋、クビになったんだって?」
出会い頭、不躾な態度で辰五郎が綾乃に問うた。面食らった綾乃だったがすぐにいつもの調子を取り戻しつっけんどんに返す。
「そうさ。それが何だい」
「んで?次郎長んとこで寝起きしてるって噂ァマジなのか」
マジも何も、マジである。団子屋の主人には住む所まで世話になっていた為文字通り宿無しになってしまったのだ。次郎長はあれでいて面倒見が良いので今はそこに厄介になっている。
「マジだよ。嫌味言われるのを除けば快適さ」
お前の要領が悪いからだのお人好しにも程があるだの色々言われる。心配しているのだと素直に言えれば楽なのに。十中八九無理だろう。
「俺んとこ来い」
辰五郎が眉間の皺を深くしたまま言った。
「はあ?」
グッと綾乃の手首を掴むと辰五郎はズカズカと歩き出した。振り解こうと力を込めるがびくともしない。綾乃は抵抗を止めた。その内に雨が降り出してきた。傘も何もない。しとどに濡れていく広い背中が見える。辰五郎の住む長屋に着く頃には着物が重たくなっていた。辰五郎は家の中に干してあった手拭いを綾乃に投げて寄越した。
「濡れ鼠。早く拭きねェ。風邪引くぞ」
「っ誰のせいだい!」
「お天道様の機嫌なんざさすがの俺でも知れねェよ」
不服そうに唇を尖らせた綾乃だが結局は何も言わなかった。手拭いからは辰五郎の匂いがしているから落ち着かなくなる。
「アンタこれ、ちゃんと洗ってあるんだろうね」
いつもの調子で言うとかっわいくねェ女と返された。辰五郎の眉間からは皺が消えておりその事実にどことなくホッとした。
辰五郎からの提案で風呂屋に行くことにした。広い湯船に浸かると冷えていた末端にじわじわと痛みに近い熱が行き渡る。次郎長の奴、心配しているだろうか。幼馴染みの怒った顔が目に浮かぶ。けれどそれよりも、辰五郎のことが脳裏に焼き付いて離れない。不機嫌そうでいて真剣で、男の顔。雨の雫が無精髭の生えた顎を伝って落ちる様。その横顔。
(あたしは一体どうしちまったんだろう)
充分に体を温めて風呂から上がると外に辰五郎が待っていた。辰五郎は御用聞きの格好ではなく渋色の着流しを着ており男のくせに妙な色気を放っている。赤面して佇む綾乃に気が付いた辰五郎が近付いて来た。
「長風呂が過ぎたんじゃあねェのか。猿みてェに真っ赤だぜ」
「うるさい!」
怒鳴りつけて家路を急ぐ。動揺していたせいか逆方向に進んで辰五郎に笑われた。
再びの辰五郎の家である。来い、と言われ強引に連れて来られたものの何だかすっかり居座っている自分の神経の図太さに呆れた。辰五郎は辰五郎で煙管を吹かすばかりで何も言わない。憎まれ口を叩き合う方が楽だ。沈黙は痛い。
「綾乃」
不意に辰五郎が綾乃を呼んだ。いつからだったろう。綾乃、と。そう呼ばれるようになったのは。心の奥がざわつくようになったのは。
「次郎長は…」
辰五郎が言葉を止めた。
「…何でもねェ。寝るとするか」
止めた言葉の続きが気になったがそれよりももっと気になることがある。
「寝るってアンタ、どこで」
「布団」
「そこの煎餅布団じゃないだろうね」
「おめぇの目は節穴かよ。この狭い長屋のどこにもう一組布団があるように見えんだ」
「っば…!バカ言うんじゃないよ!何であたしがアンタと同じ布団で寝なきゃなんないんだい!」
綾乃としては至極当然の抗議であった。が、辰五郎はポカンと間抜けに口を開けていた。
「俺ァ床で寝るつもりだけど」
夜風で冷えた頬の熱がぶり返した。みるみる赤くなる綾乃に辰五郎の方も色が変わる。
「お前がそのつもりなら俺ァ構わねェ」
「ふっ、ふざけんな誰が…!」
あ、まただ、と思う。辰五郎の瞳の奥、見たこともないギラギラしたものが見え隠れする。
「綾乃よ、おめぇ自分が今どんな顔がしてるかわかってんのか」
「しっ…知るかってんだ…!笑いたきゃ笑いな…!」
「笑わねェよ。そんな余裕はどこにもねェさ」
引き寄せられて辰五郎の腕の中だ。手拭いについていた残り香なんかじゃない、辰五郎の匂い。確かめるように辰五郎の背中に綾乃の手が回る。それを機に辰五郎の唇が綾乃の瞼に落ちた。
万年床の布団の中、辰五郎の香りでいっぱいになると呼吸すらも怪しくなった。絡みつくような辰五郎の視線に心が震える。この感情を何と呼べばいいか、綾乃はまだ知らない。まだ知らなくていい。それは先延ばしにして、今はただ辰五郎がくれる全てに身を任せたかった。
「……っ、辰…っ」
普段は気丈な綾乃が見せる戸惑いの表情。辰五郎の背中にぞくぞくと駆け上がるのはただの快感だけではなかった。ずっと欲しかったのだから。明るくて優しくて器量が良くて、けれど口が悪くて意地っ張り。一言えば十返してきて、百を返せば悔しそうに唇を噛むその姿が最高に可愛いのだ。うっすら涙を滲ませる綾乃の額に張り付いた髪を払ってやり、頬を撫でる。綾乃がくすぐったそうに目を細めた。その様子に辰五郎の口元が緩く弧を描く。そして互いが思うのだ。
愛おしい。
溶けてしまいたい。
「……っぁ…、…たっ!いった!いだだだだ!痛い!ちょっ、止め…!止めろっつってんだ聞けこのバカ!」
「でっ!」
綾乃が辰五郎の頭を思い切り叩いた。
「何でィおめぇ…。おぼこか?」
「そうだよ!真っさらだ!」
上に乗っかったまま辰五郎が大きく溜め息を吐くものだから綾乃はびくりとせざるを得ない。
「…何だ、その…。今日は止めとくか」
「っな、なん…っ!生娘だってのがそんなに悪いかィ!? そりゃアンタが普段相手にしてる白粉くさい女に比べりゃ劣るかもしれないけど…!」
「バカ、そうじゃねェ。俺にとっちゃてめぇが極上よ」
臆面なくさらりと口説き文句を吐いた辰五郎は焦ったそうに顎を掻いた。
「すげェ腹が減ってる時によ、大好物を目の前に出されたらがっつくだろ?今はお前を気遣ってやれねェから止めようっつってんだ」
極上とか大好物とか。普段は悪態ばかり吐く口から出てくるとは思えない甘い言葉ばかりだ。もう綾乃は頷くことしか出来ない。綾乃の隣に辰五郎がごろりと転がる。
「寒かねェか」
「…ちょっと、だけ」
「ならもっとこっち来い」
ぴたりとくっつくと温かかった。
「ありがとう、辰」
何がだよ、と半笑いの辰五郎の目は既にとろんとしていた。眠いのだろう。しばらくすると寝息が聞こえてきた。綾乃もゆっくり目を閉じる。明日は晴れるといいと願いながら。
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やべえめっっっちゃ楽しいww
そういえば忘れ去られがちだけど温泉旅館のお岩?さんはお登勢さんと辰さんを取り合った中だと言ってましたね。昔は美人だったのかな?時の流れは非情だものね←失礼 そういうのも書いてみたいなー。
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