月の裏側 | ナノ








▼ 青い月-前編-1

「晴陽ちゃん」


廊下を歩いていると後ろからあの低めの甘い声で名前を呼ばれたけれど、私は聞こえていないふりをしてトイレへと駆け込んだ。

個室に入り鍵をかけて壁にずるりともたれかかる。鳥肌が立ち、微かに身体が震えていた。
あの恐ろしい告白をされてから、理人君の事を避けている。


「ちょっ…!止めて!」

あの満月の日、深くキスをされた時に突き飛ばした。
拒絶された筈の理人君はそれにも関わらず、恍惚に満ちた朧気な瞳を細めて笑みを深める。
まるで、人間とは思えないその様相が怖くて、そのまま振り返る事無く一目散に逃げた。あの時の胸の鼓動は走っただけのものではない、戻って来れなくなるそんな恐怖に慄いた。今までに味わったことのなかったそれは未だに身体に余韻が残っている。

あの日から数週間、ずっとこの調子。
休憩を一緒に取ることなんてなければ、仕事上どうしても必要な事以外は一切話さない。
目すらも合わせなかった。

もちろん、それだけじゃない。
部屋の引越も、適当に理由を付けて決めた。
オフィスからは遠くなるけれど、もうこの週末には新居に移る。
皆には落ち着くまでは場所は内緒にすると伝えた。何処から情報が漏れるか分かったものじゃないから。


「晴陽、おめでとう!聞いたよ。今度新しいプロジェクトのメンバーに選ばれたんだよね?」

「うん、ありがとう」

昼休み、食堂で独りでランチを食べていると他部署の同期の友人に話しかけられた。

「びっくりした〜!応募してたんだね」

「うん!まさか、通るとは思ってなかったよ」

そう、前に応募していた社内公募の新しいチームメンバーに幸運な事に選ばれたのだ。
最終面接までたどり着いただけでも奇跡だと思っていたのに、まさか選ばれるとは思ってなかった。先日、結果が貼り出されて自分でも驚いた位だ。

転機だと思う。

引き継ぎをして、もう来月からは新しい部署に異動になるから、”彼”との関わりを全て絶つ事は可能だろう。会社は好きだから辞める気は無くて。接点さえ無くしてしまえれば、また平穏な日が戻り、今度こそちゃんとした恋人を作れると思っていた。
大きな不幸の後にはそれに見合った幸福がやって来るという話を聞いたこともある。
きっと、その言葉の通りだろう。
この後は色んな事が上手くいく。
そんな予感を抱いていた。


「よいしょ…」

台車に乗せた資料を倉庫へと運ぶ。
一人残業をして引き継ぎや廃棄する資料を分別し、倉庫整理を行う。
カラカラと台車を押して無人の廊下を進んでいく。

今夜はまた満月。
窓からは澄んだ夜空にはっきりと輝く月が浮かんでいる。
それは少し青みがかって見えた。
美しいそれに心を洗われた所で再び作業に戻った。

何列も棚が並んでいる資料室。
寂し気な蛍光灯の灯りの下、その片角で1人で黙々と作業に没頭していた。
台車からおろした分厚い資料のバインダーを棚へと返していく。

「晴陽ちゃん、ここにいたんだね」

すると、不意に室内に響く低くて甘い声。
瞬間、氷付けにでもされたかのように動けなくなってしまった。


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