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▼ decision2


「そんな事まで…」

脈拍が多くなり、慌ててコーヒーを拭き取る手は震えていた。
私の父親は小さな貿易会社を経営しており、最近その経営が思わしくない事は知っていた。
父は私と弟にその事を隠そうとしていたけれど、憔悴した様子を見れば一目瞭然で。
けれども、ただのOLでしかない私とまだ大学生の弟には何も出来なくて、困っていた所だったのだ。
誰かに相談しなければならないと考えながらも、その反面、誰にも知られたくないとも思っていた。

「ウチの会社なら、立て直すだけの援助が出来る」

動揺を隠せない私に、環が優しく語りかける。

「ほんとに…?」

「うん。そうじゃなきゃわざわざ呼び出したりしないよ」

学生時代に天使と称された柔らかくて甘い微笑みを見せる環。
なのに、その背後にはそれとはかけ離れた何か全く別のものの気配を感じる。

「…条件は?」

質問は小さな声となってしまう。
まるで、美しい宮殿の玉座にずっと探していた宝物が鎮座しているのを目の当たりにしている様な状況。
そして、罠が仕掛けられているだろうそこまでの通路に足を踏み入れるみたいに恐る恐る一歩を踏み出す様な心地だった。
そう、会社なんて大きなものを立て直すなんて莫大な金額が必要であり、幾ら友人とは言え無償で借りられる訳がない。

「しのぶ、お前わかってんじゃねぇか」

私と環のやり取りを聞いていただけで沈黙を守っていた徹が嬉しそうに口を開く。

「そんなに深刻に考える必要なんてないよ。ねぇ、徹」

「あぁ。簡単な条件だしな」

クスクスと笑いながら環と徹が顔を見合わせていた。

この世では"簡単"と形容されるもの程、その実は難しく強固なものはない。

次第に濃くなる恐怖を感じながら、次の言葉を待った。


「お前が俺達のものになる事だ」
 

すると、射抜く様な強い視線を私に向けて徹がそう言い放った。


「…それってどういう意味?」

自分が考えていた条件とあまりに違いすぎて、思考が追いつかない。

「そのままの意味だよ。一緒に暮らして俺達だけのために存在してくれればそれだけでいいんだ」

環の説明に戦慄が走る。
予想を遥かに超えた難題だった。
お金の代わりに自分の残りの人生全てをこの二人へと捧げる。
確かに言葉にすれば容易いけれど、実際は物理的にも精神的にも私の全てを奪われる事に等しいのだ。

「そうすれば、利子も…いや、返済自体要らないから」

様々な感情や選択肢、そして自分を取り巻く状況に思考が混沌としている私に、まるで悪魔の誘惑みたいに環がそんな甘い条件を付け足した。

まさか、かつての友人に囲われる事になるなんて誰が想像しただろう?

父親の経営する会社の資金援助をする代わりに私を自分達だけのモノにしたいなんて、狂気の沙汰の様な申し出をされるなんて思わなかった。


「今すぐに答えが欲しいとは言わないよ。しのぶの生活も全く変わってしまうからよく考えた方がいいと思うし…」

「でも、お前、ほんとに助けが欲しいなら、んな甘い事はいってらんねーぜ?」

柔らかな環の言葉を突き破り、心に突き刺さる徹の言葉。
二人の発言は正に飴と鞭。
どちらも真実であり私自身が選ぶしかない。
どこの銀行や企業でも、このご時世にそんな好条件で出資をしてくれるところなんてあるはずがない。

もちろん、私は同級生からの申し出を断る理由なんてなかった。

寧ろ願ってもないチャンスだとすら思えた。
私の身を差し出せば、大切なもの全てを守れるなんてなんて容易いのだろうと。

だから、自分のこれから先の生活に恐れを感じながらも、あの日契約書にサインをしたのだった。


そんな事を思い出しながら歩く新しい街並みは、よそ行きの顔で私を傍観していた。

この街に馴染むにはまだ日が浅すぎる。

そして、夕暮れの気配を見せる少し黄色がかった空の下、新しい住処へと歩を進めた。



2015.11.5
天野屋 遥か



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