I have nothing
シャワーを浴びて、バスローブを羽織った彼がベッドに腰掛けた所、いつものようにすり寄る。
その合わせ目を乱して白い胸元に口付けた。誘いの合図。平生ならば彼は薄く笑い、私の髪を乱すように撫でる。それが、許諾の合図。
しかし今日、返ってきた反応は「いつも」のものではなかった。
「な、何、陛下…」
声が上擦っている。
「もしかして、するの…?」
セッツァーは照れを隠せない目元のまま、私の腕を押し返した。
「どういうことだ?」
問いただしてみると、彼には情事に関する記憶が全く無かった。
私との記憶だけではなく、今までの、あらゆる全ての経験を忘れているようだった。
「ここ、」
好きだろう?
深く埋めた中指で、そっと掠めてやるとびくりと内股が跳ねた。
知らない知らないと頭を揺らして逃れようとする。
紫電の瞳が濡れてぼやけている。真白な身体は震えて、触れるたびに身を捩る。
まるで処女を抱いているような気分である。
セッツァーのテクニックで受け流されていたものを今の「セッツァー」は避けることが出来ない。慣れた身体も快楽をコントロールする技量も今の「セッツァー」は持ち合わせていない。
「あ、ぁ…、い…っ、ちょっと…」
待って、と脚を彷徨わせる彼の上に覆い被さる。その紫眼にいつもの余裕は無かった。怯え、恐怖と言っても過言ではないだろう。今の彼には、私が鬼か悪魔にでも見えるのかもしれない。
ぎしりと軋んだベッド。
性急に身体を重ねようとも幾らかの文句と罵倒でセッツァーは許してくれた。「しょうがないねェ」の一言で飲み込めるほど、その身体は安いものでは無かったはずだ。
陛下だから。
陛下だから許しちゃうんだよなぁ、まったく俺ってば甘い甘い。
そう言って柳眉を下げたセッツァーが、居ない。
「あ…」
腰を掴むとセッツァーは不安げに声を上げた。
昂りを其処に押し宛てる。
「や…、あ、むり、だって…」
右手が弱々しくシーツを掴んだ。
痛い、やだ、無理、恐い、出来ないってば。ぐずぐずと泣きながら訴える「セッツァー」はセッツァーではなかった。
そんな彼に私の劣情を飲み込ませるのは酷なことに思えた。
身体を離す。
未だかたかたと震えているセッツァーの髪を撫で、横に避ける。
すると、まるで触れるだけのような弱々しさで、腕が引っ張られた。紫電がゆらゆら揺れている。
躊躇いがちに、言葉が紡がれた。
「…アンタのやり方をもっかい、叩き込んでよ」
私は息を呑んだ。
セッツァーは何も知らない。
まっしろだ。
本当に真っ白だ。
「アンタだけを悦く出来るように」
なあ、それまでは拙い遊戯で赦して。
と、立てられた膝を、私は一体どうすれば良かった?
自分がどれだけセッツァーに甘えていたのかが判った。
自分に向けられていた心遣いを、心を、何もこんな時に実感しなくともいいのではないか。
二人でひとつになれるように抱き締めてくれていたのはセッツァーだった。
「…止めよう」
私の言葉に、彼は、呼吸を忘れたように目を見開いた。
「な…んで、」
セッツァーの顔が歪む。
なんで。なんでなんでなんで。
「下手だから?こんな俺を抱いたって満足出来ないから?」
「ちがう」
「じゃあなんでだよ!」
半ば叫ぶようにセッツァーは言い放った。
緊張で張り詰めていた白い身体が、ずるずると弛緩してうずくまるように小さくなった。
いつもに増して細く、か弱く見えた。
「俺には、何にも無いんだよ…」
アンタにあげられるものが身体しか無いんだよ。
それだけだったのに。それしか無かったのに。それすらなくなって、じゃあ俺はどうしたらいいんだよ。
消え入るような声でセッツァーが言った。
「抱いてよ…」
もう好きなようにして良いから、絶対、嫌だとか、痛いとか苦しいとか言わないから、アンタが悦くなってくれたらそれでいいから、ねぇ、お願いだから。
「違う。お前はわかってない。私は君をそんなふうにしたいんじゃない!」
意図せず声が強くなってしまった。
びくりとセッツァーの肩が震える。
「私は…」
私はセッツァーをどうしたかった?何を求めていた?
何をしてあげた?何を与えることができた?
「私は、何も要らない」
私は何も持っていない。
彼が私の為に演じてくれた「万能」にどうして気付けなかったのだろう。
「なにもいらない」
セッツァーがぐっと息を詰める。
薄い唇が戦慄き、噛み締められた。その力を和らげるように頬を擦り寄せる。
「君が居てくれるだけでいい」
いい、いいんだ。
大切なことを忘れていた。
お人形みたいな君がほしいわけじゃない。
慰みものにしたいわけじゃない。
私が君を抱くのも、君が私に抱かれるのも、その奥に真実が存在していたからなのに。
私はそれに気付かないフリをした。君はそれを許してくれていた。
セッツァーは一瞬、戸惑ったように目を伏せて、口を閉じたり開いたりした。言うべきか悩んでいるようだった。
「そ、それなら…」
今だけでいい、嘘でいい、夜が明けるまででいいから。
「…アンタを頂戴」
ああ、嘘吐きが震えている。困ったように嘘を吐いている。
だから私は、何も持たない裸の身体で君を抱くのだ。
「私をぜんぶあげよう」
隣に眠るセッツァーが身じろぎしたのがわかった。
ずず、と鼻を啜る音がした。
セッツァー、ひっそりと呼ぶ。すすり泣きに混じって、へいか、と弱々しい声が返って来た。
「なんだろう、俺…」
すんごい幸せな夢を見たんだ。
よく覚えてないんだけどさ、陛下が出てきた気がする。
はは、馬鹿みたい。なんで泣いてるんだろね。ごめんね、起こしちゃった?
腕の中に閉じ込めるように抱き締めた。
セッツァーが涙声でくすくす笑う。
「なに、陛下、ヤりたいの?」
かぶりを振る。
「そーんな嘘吐いたって、俺にはすぐわかるんだからねぇ?」
「…嘘じゃない」
「いーや、嘘だね」
だって陛下甘えてんじゃん。そういう時の陛下は絶対ヤりたいんだよね。
でもなあ、もう朝になっちゃうからなあ。あんまり寝坊するとセリスが怒るし。
抜いてあげるくらいならできるけど、どうせ満足出来ないでしょ?
「だから、そうじゃない」
「じゃあ何よ」
まるで駄々っ子をなだめすかすようにセッツァーが言った。
笑いをこらえるような、そんな表情。
「キスしてほしい」
私の提案に彼は少し驚いたような反応をしてみせた。
だがそれもすぐにふにゃりと溶け消えて、声は心底優しいものになる。
「甘えただねぇ」
白い指が私の頬を包む。
触れて、食んで、舌先でなぞるやり方は、私の好みを知り尽くしたセッツァー・ギャッビアーニの手法だった。
そっと口を開いて、滑り込んできた舌を受け入れ、深く絡める。
明け切らない朝の空気に、淫らな音が透明になる。
薄く目を開いたセッツァーが、瞳の色だけで笑った。
「やべ、俺がしたくなってきた」
アンタのせいだからね。困ったように柳眉を下げて、セッツァーが脚を絡めた。
腰が密着する。
「一緒に怒られて頂戴な」
そのくらいお安い御用だと思った。
(2010.10.05)
いらない、何も。捨ててしまおう。
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