上書きされた約束


春は過ぎた。頭上でザワザワと桜の葉が揺れている。泣かないように、目元を強く膝に押し付けた。


わたしがここに来たのは、一人になりたかったからだけで、誰かに追い掛けてほしいなんて欲深なことはこれっぽっちも考えてなかった。本当だよ。でも、なんでかな。左側から来る風が突然止んだ。期待なんてしてない。今会ったって何を言えばいいのか分からないもん。だけど、ゆっくり顔を上げると、隣にはじっとわたしを見つめる、一氏くんがいた。


「……なんやねん。」


何も言葉が出て来なくて、泣きそうになりながらもじっと一氏くんを見てたら、彼は不服そうにそう言った。なんやねん、はこっちの台詞だよ。


「…早苗に追え言われたんや。好きで来たわけやない。」


そっか、早苗ちゃんか。彼女の力は絶大だなぁって、少し胸が痛んだ。するとそれが顔に出てたのか、一氏くんは心底驚いた表情を見せた。それにはっと気付き、慌てて顔をそらしてみたけど。一氏くんからものすごい視線を感じるのは、気のせいじゃないはず。だからそのままもう一度顔を膝に埋めた。


「…おまえ、なんで泣かへんの?」


素朴な疑問、なんだと思う。確かに、一人でいる時や、早苗ちゃんの前では何回か泣いたことがある。あ、でも早苗ちゃんにマネージャーの件を頼まれた時のは嬉し泣きだったなぁ。


「…質問してるんやけど。」


声からして、ものすごい不機嫌。きっと今の一氏くんは眉間に皺が寄っている。想像出来ちゃう感じが、こういう一氏くんにちょっと慣れちゃったってことなのかな。酷いことを言っても、やっぱりなんだかんだ良い人なんだろう、彼は。そんな彼になら、菊丸くんとの約束を聞いてもらえる気がした。や、べつに早苗ちゃんや小春ちゃんが聞いてくれないってことじゃなくて……どうしてか、一氏くんは特別なんだ。


「…菊丸くんがね、」
「おん。」


あ、あれ?絶対なんか言ってくると思ったのに、一氏くんは普通に相槌を打ってくれた。ちょっと拍子抜けだ。膝に顔を埋めたまま喋ったから、少しくぐもった声が出てきた。


「あ、の…泣く時は、嬉し泣きだけ、って…」


それだけ言うと、一氏くんは黙り込んでしまった。ざわざわと、木の葉が揺れる音が耳をかすめる。あぁ、やっぱり一氏くんとの沈黙は、嫌じゃない。


「…せやったら、俺の前では泣いてええで。」


似合わない台詞が降ってきて、わたしは思わず顔を上げた。今のは、聞き間違いではないのか。あ、この人は一氏くんの姿をした別の誰かか。心底驚いて、一氏くんの方を見ると、やっぱり彼は不機嫌そうに、わたしの頭を一発叩いた。あぁ、やっぱりこれは間違いなく一氏くんだ…


「い、痛い…」
「自業自得じゃボケ」
「え、えぇっ?」


自業自得って、わたし、何か気に障ることした?だって、柄にもないこと言うから。あ、違うのかな。早苗ちゃんにはいっつもこうやって優しくて…。そう言えば、財前くんも言ってたね。今まで早苗ちゃんを支えて来たのは、彼氏である白石くんじゃなくて、一氏くんだって。


『ユウジ先輩の折原先輩への想いはほんまに深いで』


なぜか、頭に響いたのはさっき部室で言われたひどいことじゃなくて、一ヶ月も前に財前くんに言われたこと。今、隣で珍しく優しい言葉を掛けてくれる一氏くんの心には、早苗ちゃんがいる。深い深い想いがあるのに。


「っごめ…」


泣きそうだった。さっきより全然、泣きそうで。瞳に膜が張るのが分かり、一氏くんにはばれないように、もう一回だけ、顔を埋めた。目を膝に押し付けて、少し痛い。でも、こんなところで泣くなんて、菊丸くんとの約束が…


「俺がどんだけひどいこと言うてもおまえ泣かへんかったから、おかしい思たんや。べつに泣かへんなら面倒やないし、それでええんやけど。」


ぽん、と頭に載った重力。これは、一氏くんのあたたかい手。


「泣きたなったら我慢すな。俺はおまえんことほんまに嫌いやねん。これ以上嫌いになることはあらへんから、俺の前では安心して泣けや。」


これはこれでおかしな話だ。わたしのこと、これ以上ないくらい嫌いなんだって。でも、涙腺は呆気なく崩壊。わたしの我慢していた涙は、膝を伝って落ちて行った。


「俺には、思ったことちゃんと言い。全部、聞いたるから。」


声を上げて泣いたのは、たぶん菊丸くんとのことがあって以来初めて。悲しいのか、嬉しいのか、どうして涙が止まらないのか、もう全然分からないけど。これだけは分かるの。一氏くんがいてくれて良かった、って。


春は過ぎた。頭上でザワザワと桜の葉が揺れている。これから夏がやって来るからだろうか。身も心も涙さえも、熱くてしょうがなかった。


―――――――――――――


あんなひどいこと言っておいて今更なんだよ!
と思いの方もいらっしゃるでしょうが、ヒロインに対する気持ちの変化とユウジのジレンマを光彩陸離編の方で描けたらいいなぁと考えています
ヒロインは本当に打たれ強い(笑)

2012.02.28


[ 28/56 ]

[] []