「つむぎ先輩っ!国語辞典はありますか?!」

スパン!と勢いよく開かれた扉のほうを見ると、図書室には似つかわしくないほど気合の入った顔をして名前ちゃんが立っていた。女の子は仁王立ちとかしないほうがいいと思うんだけど、これを言ったらセクハラとかいうのになるんだろうか。

「国語辞典ですね、もちろんありますよ。あと名前ちゃん、図書室なので静かにお願いしますね」
「あ、そ、そうだ…ごめんなさい…」
「そんなに怖い顔してどうしたんですか?誰かに何か言われたんですか?」
「そういうわけでは!」
「そうです?まあ、何かあったら言ってくださいね。力になれるかわかりませんけど」
「あ、ありがとうございます」

辞典系のものが置いてある棚まで案内しようとカウンターを出る。少しばかりしゅんとして後をついてくる名前ちゃんに、余計なことを言ってしまったと申し訳なく思う。つい口をついて出てしまったけど、こんな、誰もいないような図書室で気を遣わせなくてもよかったんだ。くすぐったいような小さな足音と、スカートが擦れる音に混じった小さな声が、唐突に日々樹くんの名前を告げる。

「え?ああ、また日々樹くんのお使いですかね?国語辞典なら、台本の台詞の意味なんか調べるんでしょうか」

そういうことなら多少難しめの辞書のほうが良いかな、なんて考えていると突然ブレザーの後ろを捕まえられた。以前、宙くんのパルクールを見に行こうと誘われた時のような控えめなものではなくて、名前ちゃんにしては珍しく遠慮がない。首だけで後ろを振り返ると、やっぱり何か思いつめたような顔をしている。

「名前ちゃん、本当にどうしたんですか?俺が日々樹くんに言っときますから、用事がそれだけなら今日はもう帰って良いですよ?」

思いつめたような顔がぐしゃりと泣きそうに歪む。そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだけど、やっぱり女の子との接し方ってよくわからない。ブレザーを掴んでいる手にやんわり触れると、びっくりしたのか肩を震わせたけど離そうとはしなかった。
そっと指を外して向き直る。すでに、その目尻には小さな水滴が滲んでいて、途端にお腹のあたりがギュッと掴まれたように苦しくなる。この子が幸せになれば良いのにと今までよりずっと強くそう思う。幸せになってほしい。俺ができることならなんでもしてあげたい。

「辛いなら休んでいいんですよ。名前ちゃんは誰かのためにいつも頑張って、頑張りすぎちゃいますから…。あー、ええと、あとですね、もし俺が注意したことでこんなに落ち込んでるなら気にしなくていいですよ。口癖、みたいなものですかね…?いつも夏目くんには鬱陶しいって………。名前ちゃん?」

目尻にあった水滴が大きくなって、ついには頬を流れ落ちていく。一度流れてしまうと堰を切ったように次から次へと溢れて、パタパタと床へ落ちる音が頭に響く。

「わたし、つむぎせんぱいがすきです」
「え?」
「つむぎせんぱいが、すきなんです、もっときちんとしてから、言うつもりでしたけどっ、でも」

こんなに泣いてるくせに射抜くようにして俺を見つめる視線と、涙が床に落ちる音と、何を言えばいいのか迷っている俺の喉の音が、頭の中で混ざっている。嬉しいのか嬉しくないのかそれすらもわからないし、正直なんで俺なんかに好意を持ってくれるのかわからないけど、その小さな顔に、涙で張り付いた髪の毛を避けてあげたい。まだ止まりそうにない涙を拭ってやりたい。ただその一心で名前ちゃんの顔にそっと手を添える。白んでいた名前ちゃんの目元が、ようやく薄く色づいた。
受け入れるように目を閉じる彼女をかわいい、と素直に思ったし、今まで感じていた、彼女と会った時にたまに感じる鈍い苦しさの意味もようやくわかった気がした。

「やさしい、つむぎ先輩がすきです」
「…そうなんですか?」
「はい。日々樹先輩は、贖罪、だって言ってましたけど…。やっぱり違うみたいですって明日会ったら言います」
「日々樹くんが?」
「深い意味とか辞典できちんと調べないとわからないですけど、だって、つむぎ先輩にぜんぜん似合わない単語だったから」

なんでそんなこと言うんでしょうね?と小さく首を傾げる名前ちゃんにスッと頭が冷えていく。綻んだように緩む彼女の目元から手を離すと、不思議そうに瞬きを繰り返す。閉じていく感情の端でも、どこかでやっぱり愛しいと思ってしまう。

「…日々樹くんが正しいんです、名前ちゃん」
「え?」
「俺は昔fineに所属してましてね、英智くんの夢を叶えるためにいろいろしてきたんですよ」
「え、あ、はい…?そうなんですか?」
「はい。fineを正義にするために、それはもう、いろいろです。五奇人を作り上げて、悪役に仕立て上げて、正義の名の下に討伐とか」
「えっ?」
「それでも強い彼らを、集中できないような環境に置いたりして。そういうことを俺はしてきました」
「え、えええ?つむぎ先輩が?な、なんで」
「俺の信じる夢があったからです。まあ、結局叶いませんでしたけどね…。今は、引っ掻き回したぶん、せめて影ながらみんなの役に立とうと頑張ってるところです」

丸く見開かれた彼女の目のうちに、完璧な笑顔をした自分がうつっている。ふと、そういえば、名前ちゃんの前ではこんなに作った笑顔でいたことはなかったなと思い出す。いつも表情豊かな名前ちゃんにつられるように、自分の感情も目まぐるしく変わっていっていたように思う。

「ええと、でも、でもつむぎ先輩だってやりたいこと、あったんですよね?じゃあ、そんなのしょうがない…」
「そうですけど、俺がそれで終わってはいけないでしょう?いろんな人を傷つけた当事者なんですから」
「でも…」
「名前ちゃん、俺はたぶん名前ちゃんのこと好きですよ。まあ、確信したのはついさっきですけど」
「へっ?」
「こんな話を聞いても、まだ俺なんかのこと、好きでいてくれるんですか?」
「え、え?」
「名前ちゃんの思うような、優しい人間ではないですけど」

完全に色を失った名前ちゃんの頬へ、さっきの続きとばかりに手を伸ばす。恐ろしいほど一ミリも崩れない自分の笑顔が、彼女の目にまだ映り込んでいたけど、頬に手が触れるか触れないかのところでぎゅうと目を瞑られる。

「すき、です………」
「無理してくれなくていいんですよ?俺が償わなきゃいけないようなことをしてきたのは、本当です」

名前ちゃんには幸せになってほしい。ずっと償いのつもりでいろいろやってきたけど、彼女のことだけはきっとそれとは違っていた。
「ごめんなさい、わかりません」嗚咽混じりでそう呟く彼女の言葉に、ひどく安心した。







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