紙魚


「名前ちゃん、お帰り!今日オーディションの結果どうだった?」

わざわざ玄関に出迎えにきた母に、落ちたとだけ伝えると途端に母の顔がくしゃりと歪む。涙すら滲み出したその顔を見ながら、よくこんなに感情を変えられるものだと感心すらする。私じゃなくてお母さんが歌やればいいのに。悲劇のオペラとかすごく上手に歌いそう。

「最近、どうしちゃったの?前は予選落ちなんてそうなかったのに…お母さん、心配だわ」
「ありがと、大丈夫」
「学校外で師事してる先生が良くなかったのかしら?新しい先生につく?」
「ううん、私がもっとがんばらなきゃいけないことだから」
「じゃあこれから練習するのね?がんばって」
「うん」

このまま回れ右して帰りたい。いや、しまった帰る家はここだった。なんかもう、いっそ海に還りたいなあ。
ノロノロと靴を脱いでリビングの前を通りかかると、父と母が私のことを話しているのが聞こえた。いい話じゃないことは明らかだったから、早々に立ち去ろうと足音を殺して練習室に向かう。ふと耳に入ってきた父と母の会話に「恥ずかしい」という言葉が聞こえて、顔が熱くなった。こんなときばかりはよく聴こえる耳が憎かった。

練習室に入って鍵を締める。防音だからどれだけ叫んだっていいんだけど、なんだか叫ぶ気力もない。つかれた。いつからこんなに結果が出なくなったんだったかなあ、基礎練も毎日やってるし歌うこと自体は嫌いじゃないんだけどなあ。

がんばらなきゃと思えば思うほど、声が細くなっていく気がする。発声をしていても、前は楽に出せたところがつらく感じる。
水族館に行って、大きく息がしたい。勝手気ままに泳ぎ回る魚を見て、ただただぼんやりしていたい。魚やクラゲになりたい。今すぐなれるのなら、本の中を泳ぎ回る紙魚だっていい。紙魚になったら奏汰くんには会えなくなるけど、それもいい。

流星隊だと誇らしげに笑う奏汰くんに、どうしようもなく深い嫉妬を覚えた。こんなの間違っているとわかってはいるけど、どうしても奏汰くんが羨ましいと思う。

水族館に行くのはやめた。







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