チョコレートで編んだコスモス


「だからそうじゃないって言ってるでしょう!」

ヒステリックな声が、レッスン室中に響き渡る。キンキンしたその声に思わず顔を顰めたかったけど、いくらなんでも先生にそんなことはできない。伴奏をしてくれている友達がこっそり耳をふさぐ真似をしてくれたのが、唯一の救いにも思えた。

「もっと、お腹から頭に、突き抜けるように声を出しなさい、喉から出さないで!」
「はあ、頭から…」
「発音もなってないし、音も上がりきってないし意味を調べさせても感情がこもらないし」
「すいません…」
「前から何度も言ってることでしょう!そんなことだからコンクールでいい成績残せないのよ!」

最後の言葉が胸にささる。最近母が悲しそうに父に話していたのを聞いてしまっただけでもつらいのに、なんでまた。
自分の思い通りにいかない体、思い通りにならない結果、思い通りに生きられない場所、そんなところで何かに感情をこめるなんてできるんだろうか。先生が、水槽の向こう側にいるような気がする。いや、わたしが水槽の中にいるんだろうか。どっちでもいいけど、早くあの大きな水槽の前でキラキラ瞬くおさかなさんを見ないと、いつか酸欠で死んでしまう。






「はあ、やっぱり私はおさかなさんになりたい…」

学校が終わるとすぐに水族館に飛び込んだ。人も少ない、音楽も流れていない、ただ水槽を維持する音と水の音がぼんやりと聞こえるだけの静かな場所。やっと、思うように息が吸えた気がする。そういえば、ここでなら何も気にせず思うように歌えそうでいいなあ。激しいオペラの一節なんかじゃなくて、小さな、日本語の曲が歌いたい。
雑多に魚が泳ぐいちばん大きな水槽の前で、悠々と泳ぐ魚をぼんやり見ているとガラスに昨日の男の子が映る。ひらひらと手を振ってくれたから、わたしも振り返らずにそのままガラスに向かって手を振った。ほどなくして、男の子はわたしの隣に昨日と同じように並ぶ。

「またきてくれたんですね〜」
「うん、ここ私の癒しスポットだから」
「それは、なんだかうれしいです〜」
「この水族館好きなの?昨日もいたよね?」
「はい〜うみがすきですので」

にこにこしながら水槽の中を見る男の子は、本当にただ海が好きで来ているようだった。あ、だからこの男の子は夢ノ咲に来てるのかな。裏手が海だし、こうして学校の近くに水族館あるし、噂によると海洋生物部なんてものもあるみたいだし。

「あのさ、そんなに海が好きなら海洋生物部って知ってる?」

音楽科の七不思議にも匹敵するくらい、まことしやかに噂される海洋生物部。どこの科なのかは知らないが、部屋いっぱいに水槽を入れて魚や深海魚、はては亀まで飼ってるらしいという嘘みたいな話。この話をすると音楽科の子はだいたい驚くんだけど、隣の男の子は微塵も驚かなかった。それどころか「しってます〜ぼくがぶちょうです」と、えへんと腰に手を当てたからわたしの方が驚いてしまった。ぶ、ぶちょう?!ていうか海洋生物部って実在したの?!

「えー!写メ撮りたい!実在した証拠に」
「おさかなさんがいやがるからダメです〜」
「フラッシュ炊かないから!」
「だめです〜すきゃんだるになっちゃいます〜」
「じゃあ首から下だけ!」
「もっとあやしいからやです〜」

だめだめと頑なに写真を撮らせてくれない男の子に、これ以上はしょうがないかと私も諦める。でもまさかこんなところで噂の海洋生物部の、それも部長さんに会えるなんて。なんだか得した気分。

「ねえねえ、大きな水槽がゴロゴロしてるって、ほんと?」
「ほんとうですよ〜大きいのも、ちいさいのもあります」
「亀もいるんだって?」
「はい〜そうまがかわいがってくれてます」
「部員は何人いるの?」
「さんにんです」
「たくさん魚いる?」
「ここよりは少ないですけど、いますよ」
「あとね、あっ、ええと、何聞きたいか忘れた!」

なんだかわけもわからず楽しくなってしまって、みんなが何を気にしていたのかぜんぜん思い出せない。私もこの噂聞いたとき、もっといろいろあれこれ思ってたんだけどなあ。
男の子は「こんなにぶかつどうについてきかれたのは、はじめてです」と目を驚いたように瞬かせている。

「わたし声楽科なんだけど、海洋生物部って七不思議くらいの謎だから珍しくて」
「せいがくかのひとだったんですね」
「うん、音楽科と一緒でちょっと離れたとこにあるから」
「あ〜じょうじゃく、ですね?」
「そうだけど、その言い方なんかやだ」

あんまりな言い方に思わず吹き出すと、男の子も小さく声をあげて笑った。ゆるやかに揺蕩う水に、魚の通ったあとが一瞬だけできて消える。柔らかい照明がキラキラと魚の鱗に反射される。ほんとうに、ここが好きだ。まだ二回しか会ってないけど、この水族館にこの男の子がいるなら、息のしにくい現実だってがんばれる気がする。

「わたしさあ」
「はい〜」
「うまく歌えないからいろいろあって最近へこんでたんだけど」
「はい」
「ここもあるしまだ大丈夫っぽい!」
「そうですか」
「またここに来る?」
「はい、じゃあまたきます」
「やったあ」

さかなやクラゲにならなくても、生きていけるのかもしれない。








第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -