青はひと匙でいい


「おさかなさんになりたいなあ」

ふと、水族館の水槽の前でこんなことを呟いてしまうほどには、参っていた。夢ノ咲学園の近所にある水族館に、ここ数ヶ月前から毎日といっていいほど通い詰めているわけだけどいまだに向こうのおさかなさんたちは私を知らんぷりするし、大丈夫?なんて近寄って来てくれるはずもない。でも、その自由気ままさが今の私にはとんでもなくうらやましいのだ。いいな、おさかなさんたちは毎日漂っているだけで。
もう、私も歌うのなんかやめてただぐるぐる泳いでいたい。コンクールも受けたくないし、ダメ出しされるのももう辛いし、順位が奮わないことを両親に怒られるのも、もういやだ、おさかなさんになりたい。うちに帰りたくない。おさかなさんじゃなかったら、クラゲでもいい。

ふと、隣に誰かが並ぶ。水槽に映っていたのは同じ夢ノ咲学園の制服を着た、少し背の高い男の子だった。こんなドス暗い顔してブツブツ言ってる女の隣によく来るなあ、なんてちょっと感心したけど、その目は真摯に水槽の中だけを映していたから私も特に気にしなかった。水族館が好きなんだろうか。
ぼんやりと隣に立つ男の子のことを考えていると、すうっと目の前を大きな魚が横切っていく。天井から淡い光を受けて鱗がきらきらとひかる。現実の世界ものじゃないみたいで、とてもきれい、

「おさかなさんになりたい」

隣に誰かいるのも、ここが水族館なのも一瞬本当に忘れていた。悠々と泳ぐ魚になりたいと心の底から本気で願った。
でも、隣に立っている男の子とふと水槽越しに目が合って、途端に恥ずかしさがこみ上げてくきた。どうしよう、同じ学校なのになんだこいつヤバい……なんて思われたらつらい……声楽科じゃないようなのがせめてもの救いだ。顔を伏せて、その水槽の前を立ち去ろうとすると「なんでおさかなさんになりたいんですか〜?」と隣の男の子に聞かれた。
ず、ずいぶんフランクな人だな。キョトンと首を傾げた男の子の髪は、後ろの水槽の色と同化している。海と同じ色。

「なんでって、魚は自由そうだしいいな〜って」
「水族館のおさかなは、じゆうじゃないですよ?」
「いやまあそうだけど、この水槽の中は自由に泳げるでしょ?」
「それは、はたしてじゆうなんでしょうか」

そりゃあ厳密にいったら自由なんかじゃないんだろうけど、魚は歌いたくない歌をうたわなくてもいいし、お母さんたちも期待しないし、水槽の中だけど、行きたい時に行きたいところに行けるなら、それはもう自由なんじゃないのかな。わかんないけど。
男の子も特に答えを求めている風でもなかったから、あいまいに言葉を濁しただけでも気にした様子はなかった。「ぼくもはっきりとはわからないですけど」同じようなことを言う男の子の目は、もう水槽に向いている。

「でも、ぼくはおさかなさんにはなりたくないです〜」

男の子の目が、横切っていく魚を追って右から左へ忙しなく動いている。小魚の群れが、私たちの前をその体を煌めかせながら横切っていく。逸れた魚もいるけど、大きな群れはそんなこときにしてようすもない。だれも気にしていないし、逸れた魚もなんてことはない。何事もなかったかのようにまた群へ戻っていく。

「なんで?」
「だって食べられちゃいますし」
「うん、いや、それはそうなんだけど、水族館でずいぶんワイルドなこと言うよね…」
「おいしいおさかなさんが、さっきからとおっているから、うれしいですね」
「いや、そんな目で見てないから!」

にこにこしながらそんなこと思ってたのかこの人…わたしなんかよりよっぽどやばい人かもしれない……から笑いをしながらさりげなく距離を空けたら、「うそです〜」といたずらっぽく口の端を上げた男の子になんだか肩の力が抜けた。ふと時計を見ると、もう閉館時間も近い。そろそろ帰らないと、怒られるなあ。

「わたし、もう行くね」
「はい〜いつもありがとうございます〜」

別れ際に丁寧に頭を下げられて疑問に思ったけど、すごく不思議な子だったし話してくれてありがとうってことなんだろうか…?そんなにたいした話したっけ…?わたしも軽く頭を下げて出口へ向かう。足取りが重い。ここを出たら現実が待っているとおもうと出たくないな〜〜〜やっぱりおさかなさんかクラゲさんになりたいなあ。カバンの中で、重たい楽譜が揺れている。







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