海 壊れないほど


こわれないほど強くもない

05
坂を登っているときだけが、本当に一人のときだ。このときばかりは、図書室がなんで床張りなのかも、はっきりしないことが何故いいのかも、幸せそうに喉を震わせるチサさんの笑い方も、柔らかいチサさんの肌も全て忘れる。ただただ自分の鼓動だけを耳の奥で感じて、感覚すらなくなってくる身体に、逆に自分が生きているのだと嬉しくなる。止まりそうになる身体では、考えられることは多くない。
そう、このときばかりはチサさんを忘れる。
逆に言えば、このとき以外はチサさんのことを考えている。
つまり、支配にも似ている。


06
「なんで昨日のレース見に来てくれなかったの」

朝一番でチサさんをつかまえて、問いかけたはずの言葉は自分で思っているよりずっと強くあたりに響いた。驚いたように目を瞬かせるその仕草も、ポカリと開いた口から覗く赤い舌も、探るようなその視線も全てが気に触る。

「昨日、放課後のレース、見に来るって言った」
「あっ」
「忘れてたの?」
「違うよ、忘れてない。あのね」
「でもいなかった」
「だから、忘れてたわけじゃなくて」

俺はチサさんの言い訳が聞きたいんだろうか、聞きたくないんだろうか。慌てたように言い訳を並べるチサさんのことばを、「でもいなかった」と遮れば途端に動力を失った機械のようにピタリと固まってしまう。
なんだか何から何まで気に触る。言い訳を聞きたいのか、続けて欲しいのか、聞きたくないからと言って、じゃあどうすればいいのか、わからないと同時に面倒だとも思う。
ゲームのように、シナリオを読むだけがいい。出来上がっているシナリオを読んで、世界を救って、救うためには何をしたらいいか明確で。

ピタリと止まったまま、申し訳なさそうに、でもどうしていいかわからないという風に目だけはしっかりとこちらを伺ってくるチサさんがひどく不快だった。

「その目、やめて」
「えっ」
「言いたいことあるなら言えばいい」
「だって、山岳が」
「俺がなんなの」
「だって、怒ってるから」
「怒ってないよ」
「うそ」
「うそじゃないよ」
「怒ってるよ」
「怒ってない、ああ、もう面倒くさいなあ」

ひどくびっくりしたチサさんの目が大きく見開かれて、その目にぼんやりと映った俺の顔は本当に面倒くさそうだった。魔王を打ち負かしたというのに、まだレベル上げを延々繰り返すゲームの暗転中に見たことあるのとおんなじだった。

面倒くさい、もうこりごり、もう嫌だ、やめたい、確かにそう思っているのにその世界から離れるのも嫌なのだ。意味のない行為をしていると思ってもその世界にいたいし、ボタンを押し続ける。

「山岳、聞いて欲しいんだけど」

せめて泣いてくれたら気が晴れるのかもしれない。泣いたところなんて見たことないから、どんな気分になるのかわからないけど。

「もういいって」
「ねえ、怒るのやめて、聞いて」
「怒ってないって言ってるだろ」
「そうやって、拗ねないで」

顔が瞬時に熱くなるのがわかった。人間って、こんなに瞬間的に顔が熱くなれるんだ、湯沸かし器みたいな機能がついている。熱は頭にも伝わってカッカして、しょうがない。挑んでくるようなチサさんの目が、いつもより何かを堪えているようだった。

「わたし、昨日行こうと思ってたよ」
「でも、だって、チサさんいなかった」
「先生から頼まれごとされたんだもん、ちゃんとメールも電話もした」
「オレのこと、待っててくれれば良かったんだ」
「わたしのほうが遅かった、もう、みんな帰っちゃってたよ」
「だったら、オレのこと追いかけてよ」
「むりだよ、ねえ、もう怒るのやめて」

俺を見据える目から堰を切ったように涙が溢れ出す。力を入れ過ぎてるのか、涙は目頭から鼻の脇を通ってチサさんの口へ流れていく。しょっぱそう。そういえば、涙ってみんなおんなじ味なんだろうか。
俯いてしまったチサさんの涙が、伝わる路線を失って廊下へパタパタと落ちていく。リノリウムの床は、涙が落ちても音を立てることを知る。

「オレ、拗ねてなんてない」
「拗ねてるよ、わたし、どうすればよかったの」

来てほしかった、昨日会って欲しかった、追いかけてきてほしかった、俺が学校にいる間中チサさんのことを考えているように、俺と同じくらい、俺のことを考えて欲しい。そう、俺だけじゃ不公平だ。

「ねえ、ずっと俺のこと考えてて」
「考えてるよ」
「もっと」
「考えてる」
「まだ、足りない」

涙を拭おうとした手首をそっと掴まえる。いつもよりずっとずっと優しく掴んだはずだったのに、「痛い、いやだ」
振り払うようにされた手を追えなかった。










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