海 ひとつ上の人



ひとつうえのひと

00
図書室の床だけが板張りなんだよ、とっておきの秘密だとでも言うように彼女が教えてくれたことは、学校にいる間じゅう頭の片隅にぼんやりと浮かんでいる。廊下のリノリウムの床を音を立てて歩くとき、廊下から教室の境目をそっと跨ぐとき、下駄箱に降りたときの、砂利を踏む微かな音を聞いたとき。そう、学校にいる間は、だいたいいつも俺は彼女のことを考えているわけだ。そう、俺のほうは、だ。
以前、「なんで図書室の床だけ特別なんだろう?」と聞いたことがあった。彼女は少しだけ目を瞬かせたあと、あっさりと知らないと答えた。「気になるの?」慈しむようにそっと触れてきた手が、残酷だと思った。

01
図書室なんて、実は全然好きじゃない。箱学の図書室だっていうのに自転車の雑誌なんか一冊もないし、喋ってると怒られるし、寝てると起こされる。良いことなんかひとつもない。
ひとつだけおもしろいと思うことは、床が板張りのせいでサラサラしているから、スケートの真似、なんてことができるくらい。それだけはおもしろい。やると怒られるけど。

目の前で参考書を広げて、一心不乱に問題を解いていくチサさんは図書室が大好きだという。
静かだから好き、そういうチサさんに、坂の上のほうはもっともっと静かなんだと教えたことがあった。自分の心臓の音だけが、いやにはっきり聞こえる世界をチサさんにも知ってほしいと思ったから。
すごい、行ってみたい、私も行く、興奮しながら差し出された手首を握ったとき、あまりの頼りなさに、この人たどり着く前に折れて死んじゃうんじゃないかな、と本気で思った。
ガリガリと確信を持ってノートを駆け回るチサさんの手は、あの時と変わらない。ひとつうえなのに、俺より頼りない手をしたままだ。
じっと手元を見られていることに気付いたのか、チサさんが申し訳なさそうに顔を歪める。

「山岳、もうちょっと待ってて、この一問だけ、ごめん」
「うん、あのさあ」
「うん?」
「チサさん、オレと腕相撲したら負けるよね」

ピタリ、と全ての動作が止まる。固まる。
わけのわからない、数字と英語の混じった文章から顔を上げたチサさんは、ほとんど睨みつけるようにしながら俺を伺って、何事もないように頷いた。うん、それに悔しさもなんの色も滲んでいない。

「当たり前じゃん、山岳、鍛えてるんだもん」
「クライマーだからそこまでじゃない」
「でも、無理。負ける」
「俺もそう思うけど」
「なにそれ」

変な山岳、そう言うチサさんはあっさりと俺から視線を逸らして、またわけのわからない文章を綴り出す。その手首を掴んで止めたら、怒るだろうか。


02
「山岳、ちょっと大きくなった?」

隣を歩くチサさんが、確かめるようにして手を自身の頭の上に置く。そこから横にスッと動かされた手は、俺の肩より少しだけ下にそっと当たった。こんな風にして背を比べたことないけど、言われてみれば前はもっと近くに頭があったような気がする。
ああやっぱり、やだ、この世の終わりを見たかのような絶望しきった声に思わず笑ってしまう。

「オレ、実は今背中曲げてるよ」
「うっわ、憎らしい!」
「憎らしいって、そこまで?」
「ねえ!背中ちゃんとのばしてみて!」

肩甲骨の下あたりを押されると、筋肉やら骨やらが微かな音を立てて伸びていく。さらに開いた差を見て、チサさんはやっぱり悔しそうだった。今日から牛乳いっぱい飲む、そう高らかに宣言したチサさんだけど、牛乳飲んでるところなんて一回だって見たことないし、チサさんが大きくなっちゃったら、本当にひとつうえのひとになってしまいそうで嫌だ。
俺にわからない問題を簡単に解いてしまったとき、ふふ、と喉を震わせるだけの静かな笑い方をするとき、ふと手が当たって、チサさんからそっと指を絡めてくれるとき、焦げ付くようなもどかしさを感じる。まだ体が弱かったときに感じた、あの焦燥感。

「山岳、自販機でミルクティー、買ってくるね」

薄暗闇に、ぼんやりと佇む自販機に駆け寄ろうとしたチサさんの手首を掴んで止める。ほっそくてうっすい手首は、俺が掴んだってさらに指が余る。
どうしたの?急に引き止められたチサさんが、不思議そうに目を瞬かせる。

「オレ、ポカリがいい」
「ああ、うん。じゃあそれも買ってくるね」
「チサさんもポカリ」
「え?」
「一緒に飲もうよ」

半分こ、するの?首を傾げるチサさんの目元が柔らかく下がった。答えがもうわかってて、でもその答えをオレに求めてくるチサさんはひどい。
さっきまで重力に従って項垂れるばかりだったチサさんの細い手首が動いて、器用に俺の指に触れてくる。おもいっきり否定してびっくりさせたい、とか、この手を振り払ってみたいだとか、そういうことを思うのは俺がまだおとなじゃないからなんだろうか。嬉しそうに目元を色付かせるチサさんに、半分こしよう、と手を握りなおした。いっそう嬉しそうにしたチサさんに、なんだか腹の底が焦れた。










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