真波と夜の海

陽光を受けていない海とはこんなに暗くおおきな存在だったのか。浜も漁港もない地元の海は、無機質なテトラポッドと防波堤で普段から決して賑わう場所ではない。うら寂しい、という言葉がぴったりだったそこは今は大きな大きなまっくろい口に見えた。食べられそう、だと思った。隣で防波堤の上に座る真波はじっと波のたゆたう様子を見ている。落ちないように、と薄いパーカーの裾を掴んだ。遠くに行ってしまいそうな真波に縋ってもいるようだった。






電話越しに聞いた声はいつもの真波よりずいぶん静かなものだった。チサちゃん、寝てる?と全ての感情を押し殺したような声で問いかける。もう深夜に近い時間帯のことだったのできっと眠いだけだろうと思い、まだ寝てないけどもうすぐ寝る。どうしたの?と読みかけの小説から目を反らすことなくおざなりに答えた。そっか、よかった。夜中にごめんねと真波にしては常識的な挨拶を聞いていたが意識の大半は悠一と康子が海で出会う、これからの要ともなるシーンへとそそがれていたので真波が喋るのをやめたことに数秒の間気付かなかった。少し訝し気な感情を覗かせつつ、チサちゃん?と私を呼ぶ声に慌てて謝罪した。

「ごめん、本読みながら喋ってた。ごめん、読むのやめます」

呆れたような嘆息を少し気まずく思いながら再度用件を聞くと、今度はわたしが呆れて声を上げる番だった。はぁ?と先ほどまでのぼんやりした声とは違い、まさに素っ頓狂な声を出した私を全く気にせず真波は同じことを繰り返す。

「チサちゃん、今から海行かない?」





もちろん答えは、嫌だ、だ。今何時だと思ってるんだ。もう夜中だし明日は普通に学校もある、真波だって朝練があるだろう。という旨を伝えても真波は聞かず、明日の部活終わったあとに行こうという打開策にもがんとして譲らなかった。決して常識的な性格ではない真波だったが、彼はいわゆる無茶振りというものはしなかった。あくまでわたしの出来る範囲で我が侭を言った。今回のようなことはいままでになかったので、多少なりとも戸惑ったわたしはそれを隠すように、さっきまで読んでいた本を本棚に戻す。無意味に、そこに並んでいる本の題名を眺めた。

「俺、今行きたいんだ」
「やだよ。一人で行きなよ」
「お願いチサちゃん」
「危ないし..明日学校あるし、真波だって部活あるし」
「大丈夫、俺そっちまで迎えに行くよ」
「いいよ来なくて。だいたいなんで海行きたいの?」
「んー、なんとなくチサちゃんと行きたいなーと思って」
「突然なに、意味わかんない」
「俺も」

幾分柔らかい声音ではあった。きっとまたいつもの気の抜けた笑みでも浮かべていたのだろう。真波は決して馬鹿ではない。聡明とまでは言えないが、するどすぎる感性が他を補っているような、小さな子供のような生き方をする。加えて、人に伝えるという努力をよく怠るのでまわりからは変わった奴だの不思議ちゃんだのというレッテルをはられてしまう。しかし、よく付き合ってみると意外とそうでもない。何かがしたい、という裏には必ずきちんとした理由があった。きっと今回のこともそうなのだろう。今、その理由を言いたがらないのなら私が動くしかない。しょうがない。

「...わかった。今から支度する」
「有り難うチサちゃん」
「..やっぱり怖いから迎えにきて」
「もちろん」

結局最後に折れてしまうわたしはつくづく真波に甘い、と一人呆れた。時計の短針はそろそろ1を指そうとしている時刻。私が了承を伝えたときの真波の声は平素とかわりなかった。驚きも過剰な喜びも乗せなかった声はわたしが当たり前のように来るだろうと思っていたことを物語っていた。それに理不尽さと自嘲を感じる中、確かにほんのりと、嬉しい、という感情があるのを認めないわけにはいかなかった。


薄手のコートを羽織って手持ち無沙汰に携帯を見ていると真波から到着を知らせる電話が入った。着いたよ、という声にりょうかい、とだけ返して電話を切る。足音を立てないよう廊下を歩き、静かに玄関をあけると自転車に凭れた真波がへらりと力なく笑って手を振っていた。薄いパーカーと半ズボン姿の真波に顔を顰めて、風邪引くよ、と言うと聞いているのかいないのか、自転車を押して海へ続く道を進み始めた。小さくため息をついて、自分の巻いていたストールを後ろから真波の首に巻き付けてやる。あったかい、と呟いた真波は胸のあたりで風にそよぐストールを握った。




道中わたしたちに会話はなかった。ただ自転車のタイヤがアスファルトを噛み締める音と2人分の足音が静まり返った街に響いた。半歩先を行く真波の表情は伺うことができなかった。普段から口数の多い真波ではなかったが、このときは加えて話しかけにくい雰囲気もあったので私は黙って半歩後をついていった。
波の音がほんの微かに耳に届いた。




陽光を受けていない海とはこんなに暗くおおきな存在だったのか。浜も漁港もない地元の海は、無機質なテトラポッドと防波堤で普段から決して賑わう場所ではない。うら寂しい、という言葉がぴったりだったそこは今は大きな大きなまっくろい口に見えた。食べられそう、だと思った。隣で防波堤の上に座る真波はじっと波のたゆたう様子を見ている。落ちないように、と薄いパーカーの裾を掴んだ。遠くに行ってしまいそうな真波に縋ってもいるようだった。


海に到着して防波堤の上に座る真波はまだ何も言葉を発しなかった。ただただ暗い海を眺めるばかりだったが、たしかに意識の中にわたしがいることだけは感じられた。言葉を発してはいけない、という錯覚さえ起こさせるような雰囲気に呑まれわたしもただじっと海を眺めた。
掴んだパーカーの裾がたよりないものに思えて、いっそう不安だった。真波だけが海に呑まれていきそうだと感じた。一瞬過った想像の真波は海に呑まれるというより、それに向かって自ら飛び込んだ。海の中とか恐怖とか、そういう概念すら忘れたような目でわたしをいとも簡単に置いて海に飛び込んでいった。かしたままのストールが私を嗤っているように思った。

「真波」

呼んだ声は確かに震えていた。想像の中とは言え、そうならないとは言い切れないのが怖かった。もちろん本当に飛び込むはずはないのだが私を置いていってしまうというのはかなりの確率でありえるとも思ったからだ。真波は私に一瞥だけをくれてまた海へ視線を戻した。漠然と寄せては返す波のようにわたしの不安もたゆたう。何故こんな夜中に呼び出したのか、真波は私に何を言いたいのか、何か意図があるのかないのか、何故さっきから何も話さないのか。

少し大きく波が寄せたのを見て、何かが欠壊した。わたしの嫌な想像は堰を切ったようにあふれて溢れた。まなみ、とさっきよりもずいぶんか細くて震える声にいよいよ真波もしっかりと私を視界に入れた。

「泣きそうなの?」
「だって、まなみ今日変だよ」
「そうかな?」
「いきなり夜中に海行きたいなんて言い出すし、全然喋らないしわたしのこと無視するし海ばっかり見てるし」

飛び込んじゃいそうでこわかった、とパーカーの裾を握った手に力を込めると真波はやんわりとそれをほどいて私の手を自らの手で包んだ。

「ごめん、俺いろいろ考えてたんだ」
「何を?」
「いろいろ、たくさん」
「うん」
「坂のこととか自転車のこととか」

いつものことでしょ、と言うと悪戯が成功したときの子供みたいに笑った。くしゃりと歪んだ顔に心はすこしだけ凪いだ。

「まぁ、そうなんだけどさ!でも、今日の俺はもっと考えたんだ」
「うん、なぁに?」
「俺たちさ、最近会ってなかったでしょ?」
「そうだっけ?でも、1週間くらいじゃなかったかな、顔見てないの」
「うん、それくらい」
「それがどうかしたの?」
「俺さぁ、正直に言うとその間チサちゃんのこと、忘れてたんだ」

気まずそうに頬を掻く真波に怒りはわかなかった。わたしも、忘れるとまではいかないが自分のことを優先していたからだ。勉強だったり自分の趣味のことだったり友達との付き合いだったり、たまにふと真波元気かなと思うことはあったが、まあ元気だろうとわざわざクラスにいって確かめることもしなかった。
私たちは、周りからみたらずいぶん冷めた付き合い方をしているように思う。しかし、根底にはお互いがいるという感覚はあった。真波からもそれは感じられたし、特になんの不満もなかったのだが真波は違ったのだろうか。こんな冷めた付き合いではなく、自分を1番に考えて自分を1番に優先してほしかったのだろうか。

「ね、真波、わたしのこと嫌いになった?」

自分でも驚く程無感情な声音だった。真波がぎょっとしたような顔になって、慌てて大げさなまでの否定をする。

「えぇっ、違うよ!チサちゃん、なんか勘違いしてるよ!」
「だって、」
「違うって!チサちゃんが考えてるような話じゃないんだ」
「じゃあ、なに?」

真波の否定の言葉を聞いて安堵するとともに、今さら自分の言った言葉が理解できて酷く恐ろしい気持ちになった。否定されなかったら私は何を思ったんだろう。あまり一緒にいないにしても、私は確かに真波が好きなのだ。真波と会って、話して、呆れたり笑ったりする時間がもうなくなるなんて、寂しいとか虚しいという言葉より、痛いというほうがしっくりする。

私がまだ不安そうな目をしていたのか、真波はあわあわとさらに意味のない否定を繰り返す。転びそうなペンギンみたいに手をぱたぱたとさせながら、違うんだってチサちゃん、違うよチサちゃんを嫌いになったとかじゃなくて、とにかく違うんだ、ぱたぱたと手が動きまわる。そういえば、こんな真波を私はよく見るけど、みんなは見たことないって驚いてた。あのおっとり真波がそんなに慌てるわけないじゃん、とみんないっこうに信じてくれない。でも、わたしはけっこうこういう真波を見る。ふと気付いたそれは、わたしの心から不安を取り去るのには充分だった。いつまでも慌てさせてたって可哀想だ。動き回る右手を目で追いながら、真波さっきからペンギンみたい、と言ってこらえきれずに吹き出すと真波はやっと安堵したように嘆息したあと、すぐにむっとした顔をして笑うなよ、と口を尖らせた。ごめんごめん、と柔らかい髪の毛を撫でると尖らせた口でぶつぶつと文句を言っていたがしかし、これはどう考えても真波が悪い。むっとしたいのは私のほうだ、あんなのシチュエーションや今日の真波の態度を考えればどう考えたって別れ話だ。

「で、結局なぁに?あんなのどう考えても別れ話にしか思えないよ」
「だから違うんだって」
「うん、もうわかったけどさ。こわかったなって、思って」
「うん、そっか、そうだよね、ごめん」

しゅんとして黙り込んでしまった真波に、気にしてないと伝え理由を聞かせてくれるように促す。真波は、いまさら言いにくいんだけど、とほんとに言いにくそうに頬をぽりぽりと掻きながら座り直した。

「あのさ、今朝、東堂さんに彼女は元気かって聞かれて、あ、東堂さんって部活の先輩で同じクライマーなんだけど、カチューシャしててすごい面白い人なんだ、で、その東堂さんにね、チサちゃん最近見てないんでわかんないです、って言ったら驚かれちゃってさ」
「あ、山神さま?」
「そうそう、スリーピングクライムのね。で、散々説教されたんだ。遠距離恋愛ならともかく、歩いて数分のクラスにいる彼女の様子を知らぬなど何事だ!知らぬ間に縁を切られていても文句は言えぬぞ!って」
「あー、言いそう。似てる」
「でしょ。で、チサちゃん最後に見たのいつだっけなーとかチサちゃん元気かなーとか俺知らない間に縁切られちゃうのかなーとか、 チサちゃんのこと考えてたらすごく会いたくなっちゃったんだ」


ポカン、とした。なんだ、真波はただ私に会いたかっただけなのか?わたしのぽかりと開かれた口を見て真波は伺うようにこちらを見る。わたしが怒ったと思ったのだろうか。

「え、理由それだけ?」
「、うん」
「なんで夜中に海なの?」
「あ、それはただ俺が前から行ってみたいと思ってて」
「最初なんで怒ってたの?」
「怒ってたっていうか、東堂さんに言われたこと考えちゃって」

今俺縁切られちゃってる状態なのかなーって、思っちゃって。でもチサちゃんヤサシーから、言わないで
俺の我が侭に付き合ってくれてるのかなって。

語尾が、いつもはっきり喋る真波にしては珍しく聞き取りにくかった。もごもごと口を動かす真波を見ていたら、いろんな感情が、それこそ呆れやら安堵感やら腹立たしい気持ちやらがふつふつと湧いてくる。一斉に吐き出すように下を向いて大きくため息をつくと、真波がまたあわあわと慌てだしたのが視界の端にうつった。なんだか、つかれた。ひとりで動転してひとりで辛くなって悲しくなって、今日一晩でわたしの感情は大きく揺れたのだ、つかれた。振り回されてるなあ、と思う。だいたい、もし縁を切った男に夜中海に誘われて、しょうがないなあ行ってあげるなんていうヤサシー女の子なんていないんだ。そんな聖人君子みたいな人間どこにもいない。好きじゃなかったら振り回されたりしないのに。

「真波くんはさ」
「チサちゃん、あの」
「ただ私に会いたかっただけなんだ?」
「..うん、」
「明日になれば学校で簡単に会えるのに、わたしに会いたいからこんな夜中にわざわざ呼び出して、押し黙って私を焦らせ別れ話かと勘違いさせるような雰囲気をつくってまた私を焦らせどっか行っちゃいそうな雰囲気を醸し出してわたしを焦らせ」
「あの、チサちゃん怒ってる、よね?」

防波堤から飛び降りて、おそるおそると言った感じで俯いている私の顔を覗きこんだ真波に、「怒ってないっ!」と大声で叫んで飛びつけば真波もうわあっ!と近所迷惑な悲鳴をあげる。笑いが止まらなかった。
人間って本当に呆れると笑っちゃうんだなあ、華奢だ華奢だとばかり思っていた真波は私なんかよりずっと大きくて柔らかくなくて、そんなことにも笑えた。真波はもうとにかくどうすればいいのかわからないらしくて、急に飛びついたままぎゅうぎゅうと自分を抱きしめて笑っているわたしにえ、だとか、う、だの口の中でもごもごと呟いていた。

「ね、真波」
「な、に」
「わたしね、真波の中でわたしが1番じゃないことくらい知ってる」
「、うん」
「真波も、わたしの中の1番じゃない」
「それ、改めて言われるとちょっと寂しいね」
「自分だって」
「まあ、ね」
「でもね、わたし確かに真波が好きだよ。さっき、もし真波に
もうわたしのこと好きじゃないって言われてたらって考えて、わかったの」
「うん」
「縁切った男の我が侭に付き合うほどヤサシー女の子じゃないよ」
「うん、うん、そうだね」

背中に真波の腕がぎこちなく回された。
口をあんぐり開ける不気味な海はもう見えない。







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -