ぼくのシュガーリィ・カラー


「名前って好きな人いるの?」

「…え」

カリカリと数式を書いていた手が止まる。一瞬しんとした教室に、校庭から聞こえるホイッスルの音が響いた。

「え、じゃなくてさ」

「い、いや、唐突すぎない?!」

「…だってこの問題分からないんだもん…!」

そう言って数学のテキストをバッと閉じた友人。放課後、机を向かい合わせにして課題をしようと言い出したのは彼女だ。ちなみに提出期限は明後日。

「もーなんなのよこの数式!問題文も意味わからないし、日本語で書きなさいよ!」

「それは同感だけど」

「でしょ?頭パンクしそう…それで、好きな人いるの?」

気分を変えないとやってらんないらしい友人は、机に身を乗り出してずいっと顔を近づけてきたので思わず私はのけぞった。

「あ、圧がすごい…」

「さっきの反応、絶対いるでしょ!私を誤魔化そうとしたってそうはいかないんだからね」

「えぇ…」

本格的な尋問を始めた友人にたじたじになる。うーん。脳裏を掠めた彼を紹介してもいいものか。

「…いるにはいるけど、」

「やっぱり!」

「でも、この学校の人じゃないから聞いても面白くないと思う」

「恋バナに面白くないものなんてないわよ!え、年上?!」

さあ存分に話しなさい!と完全に課題を放置した彼女は、邪魔だと言わんばかりに雑にカバンに教科書やらを放り込む。それに苦笑いを浮かべながら、どこから話そうかなぁと考える。
…私もこの課題は帰ってからにしよう




「で、どこの問題が分からないんだァ?」

今日は週に3回ある家庭教師の日。苦手な数学だけ教えてもらっている。ちょうどいいやと放課後できなかった(正しくは諦めた)課題を引っ張り出し、少し離れていた2つの椅子を近づけた。

「ここの証明問題なんですけど…」

「またかよ。ほんっと名前は苦手だなァ、この手の問題」

見せてみろ。
そう言ってグッと顔を近くに寄せてくる彼は、不死川実弥先生。大学生でアルバイトの1つとして家庭教師をやっている。なんでも他に2つも掛け持ちで働いているらしく、今日もこの授業の後居酒屋に向かうと聞いた。

「あー、これはここんとこ説明できればあとはいける」

「そこができなくて…」

「ったく、ちゃんと文章読んでみろ。この前できた問題と似てるだろォ?」

「私にとっては全然違いますよ」

少し反抗すれば持っていたシャーペンで手の甲を小突かれた。いいから黙ってしろということらしい。はぁ、と息をついて問題に取り組む。


それからしばらくカリカリと手を進めていたが、やっぱりわからなくて手が止まってしまった。前の問題の応用であると理解はしているけど、数値が変わるだけでなんでこうもさっぱり解けなくなるんだろう。

「…お手上げです」

「……ちゃんと考えたのかァ?」

「考えた。それでも分からないんです」

「…しゃあねぇな」

パタンとしばし読んでいた大学のテキストを閉じ、一緒に問題をのぞいてくる彼の香水がふわりと香る。白に近いグレージュの毛先が視界の隅を掠めた。



「オイ、顔赤くしてんじゃねェ」

「ふ、不可抗力です…」

「…くく、そうかい」

くつくつと笑いながらこの問題はァ、なんて説明されても頭に入ってくるわけないし、先生との距離が気になって仕方がない。

「名前、聞いてんのかァ?」

「…聞いてます」

「いい加減慣れろよォ。付き合って半年は経つぞ」

そうだけど、でもそれとこれとは違うというか。
言い訳らしいことも言えずもごもごする私をさらに笑う実弥先生。その余裕ある大人な姿にまたしても簡単にときめいてしまうのだから、本当にずるいと思う。


「次の問題解けたら、土曜日のドライブのときアイス買ってやる」

「…ほんと?」

「解けたら、だけどなァ」

「絶対解く」


こうしてご褒美に釣られるところは、自分でもまだまだ年下で子どもっぽいなと思う。でも意外と実弥先生はこれを気に入っていて、今も優しく頭をポンポンしてくれた。…それが嬉しいからやってるなんて、バレないようにしなくては。


「今日ね、友達に好きな人いないかって聞かれたの」

「…黙ってやれェ」

「実弥先生のことちょっとだけ自慢しちゃった」

「……しちゃった、じゃねェよ」

いつもはキリッと釣り上げている眉を下げた先生。あくまで家庭教師として家に来ているので、娘さんとお付き合い始めました、とは言えないらしい。まあ、それもそうか。それを聞いた私は万が一に備えて、授業中は部屋の鍵を必ずかけている。

「大丈夫です。イケメンのおにーさんってしか言ってないもん」

「…どこが大丈夫なんだか…」

「ふふ、イケメンは否定しないんだ」

「うるせェ」

ちゅ、と唇を塞がれる。

「…集中できないんですが」

「くく、それは残念だなァ」

鍵はかけたか?

そう言いながら近づいてくる顔を見て、ドライブのアイスはがないのは先生のせいと思いつつ、目を閉じた。







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