アンハッピー・クリスマス





「傑が来た」

そう言う五条悟の顔は暗かった。
そしてその衝撃にインスタントコーヒーの粉を入れた私のマグカップは冷たい床に落ちて転がっていった。ごろりごろり、と転がったマグカップからは回転する度に粉がこぼれ出す。

「……今、なんて言ったの」
「お前が出張に行ってた昨日だよ。傑が高専に来た」
「それで、傑は」

口が震えて言葉が紡げない。舌が邪魔で切り落としたくなる気持ちを押さえて、悟の言葉を促す。悟越しの冬空は重く、黒く濁っていた。小さくカチカチと鳴っているのはつけたばかりの灯油ストーブだ。元々は傑の部屋にあった物を私が勝手に奪って使っている。

「宣戦布告してきた。クリスマスに百鬼夜行するんだと」
「百鬼夜行……?」
「意味分かんないデショ。僕も同じく」

お手上げ、という姿勢で笑う悟が笑っていないことくらいは同級生のよしみで分かっていた。そして悟が傑の居場所を知っていた時期があることも知っていた。

傑はいつでも自分を殺しに来いと言わんばかりに堂々と暮らしていた。新興宗教を隠れ蓑にする呪詛師は傑以外にもおり、そういった類の輩は呪術師に目をつけられやすい。傑のように特徴的な見た目をしていれば尚更だった。

でも誰も傑を自主的に捕らえようとする者はいなかった。いたとするなら、本当に末端のバカくらいなものだろう。彼に適う者なんて五条悟しかおらず、また彼の理解しがたくはない思想に触れることが出来る勇者もまた、五条悟くらいなのだ。

そのことを誰もが知っており、私もまたその中の1人だ。
元々はバカの1人でもあったが、ある日を境に私はバカをやめた。


彼が離反して最初の私の誕生日に届いた匿名の誕生日プレゼント。私の好きな赤色のボックスに詰められた傑とお揃いのハンカチ。携帯のキーホルダー。プリクラ。あげたマフラー。それらが全て詰められていた。

返却された思い出をそっとしまってから私は傑を探すことをやめていた。

そんな傑が。

「殺すの、悟」
「……処刑対象だからね」

五条悟は大人になった。
育つべき情緒を育てないまま大人になった。
傑が高専時代に言っていた正義感と、
行っていた筋トレメニューをそのまま引き継いだ五条悟は無駄に大人になった。
上辺だけ大人だった学生時代の夏油傑よりほんのりだけ本当に大人だ。

「私が殺そうか」

転がったままのコーヒーを拾いながらぽつり、と呟く。たった0.01秒くらいの五条悟の動揺を肌に感じる。1呼吸にも満たないその動揺を、悟は大きな口で飲み込んで笑った。

「バーカ。お前には殺せないデショ」

いつからそんな切ない声音を覚えてしまったのでしょうか。
そんな声音も夏油傑が育てた幼い人間性だと思うと、ブラックコーヒーなんて目じゃないくらいどろりと苦い。

決戦はクリスマス。
苦くて真っ暗なクリスマス。

五条悟の背後で雨は降り始めていた。





12月24日は慌ただしくやって来た。
その日の悟は口数が少なく、それでもずっと考えている様子で高専を出て行った。それは後輩である七海建人も同様だ。
途中見掛けた冥さんも同じような様子で、誰も彼もが似たような緊張感をもっている。

不幸にも私はこの日、天元様の結界入口を守る当番に指名されてしまったこともあって高専の入口付近に立っていた。夏油傑の襲撃があるというのに天元様の護衛をつかされるというのは、どうにもやるせない。どうせ悟の入知恵なのだろう。どうしたって私に傑を殺させないという意思を感じる。

日没は近い。
走るように過ぎ去る赤色の陽射しが眩しくて目を覆った。じくりと痛む視神経。薄ら開いた細い視界は水分で歪んでいる。

高専付近を護衛している呪術師と管理している補助監督に定期連絡をしようとスマホを開く。ちゃらりと揺れるのはガラケー時代から付けているキーホルダー。あの日返却された思い出の1ピースが揺れる。

思わず溢れるため息と共に背筋がゾクリと波打った。この、呪力は。

ゆっくりと石畳の向こうを振り向きながら、手は急いで別の呪術師にコールした。プルルと規則的な音に返答はない。そして男は立っていた。

「や、かなた」
「傑……!」

百鬼夜行を行うとされていた場所は新宿と京都だ。勿論、そこに夏油傑がいるという話があったわけではないが呪いを放つという話ならば誰もが新宿か京都に傑がいることを疑わない。

急いでスマホのコールを悟に切り替えようと走り出すが、2歩ほど足を動かした瞬間にふわりと身体が浮いた。脇の下に入れられた傑の鍛えられた太い腕がしっかりと私を掴んでいる。夕陽に照らされる傑は微笑むフリをしている。

「悟に電話かい?少し話をしようじゃないか。同級生だろ?」
「よく言うよ」

貼り付けたようなわざとらしい笑顔を遠ざけようと腕を伸ばすが、そんなことで動く夏油傑ではない。仕方なく術式を使おうとしたが、簡単に奪われたスマホと唇に私の時は一瞬で過去に戻り、止まった。

「な、んで」
「乱暴なことはしたくないんだ。君は私の世界にいてほしいから」

しおらしいことを言う彼の手は血で濡れていた。ばたばたと暴れながら向きを変えれば、傑越しに倒れている補助監督の姿があった。息を引き取っている者もいるだろう。

だのに、夏油傑の唇は温かい。

「私の世界ってなに、非術師が全員死んだ世界のこと言ってるの」
「そうだよ」
「バカ言わないでよ」
「バカなのは君たちだ。いつまであんな猿共の為に人生を使うつもりなんだ」

言い返そうとした唇に彼の温かくて少しかさついた唇が重なる。固く歯を噛んで拒絶の意思を示しても、軽いリップ音が何度も重なった。何度も何度も重なって、私の意思も何もかも飲み込む大きな口。

「必ず迎えに来るからここにいてくれ」
「嘘、絶対に来ない」
「来るさ」
「嘘。絶対に嘘」

頑なに首を振る私に、傑は久しぶりの笑顔を見せた。優しい顔に思わず鼻の先がツンと鋭く痛む。

「君は変わらないね」

その言葉を合図に世界は反転した。
真っ暗に閉じていく世界。



目を覚ました時には全てが終わっていた。

ボロボロに壊された建物。
ボロボロの学生たち。
なぜだか晴れやかな顔をした悟。
傑のいない世界。


「お前には無理だったんでしょ」

そう言って笑う悟を見て、私は初めて死にたくなった。




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