願いが叶う電話番号




『もしもし?』と聞き覚えのある声が返ってきた瞬間、涙腺は仕事をしなくなってしまった。返事が出来ない代わりに、はくはくと動く口。腹からせり上がる感情の波で鼻がツン、と痛んだ。

荒く呼吸することしか出来ない私に、再度『もしもし?』の声。決壊した涙腺のままに激しく泣きじゃくる私に優しい声が掛けられて、その声にまた胸が熱くなって、目頭も顔も燃えるほど熱くなった。手ばかりが冷えて震えながらスマホをかろうじて握っている。

「……っすぐ、る、なの?」
『え?もしかしてかなたかい?』

すぐそばにいるんだから部屋に来てくれればいいのに、と少し笑みを含んだその声で死んでしまいそうだ。

スマホの画面に表示されている番号は傑の携帯の番号ではない。28歳の私が15歳の傑と通話を交わすことになったことを語るには、1日と半日ほど前に時間を遡る。






「《願いが叶う電話番号》ですか」

任務として渡された紙に書かれた見出しを読み上げる。定期的に世間では等級不明の都市伝説や噂が立ち上っていた。それはある種、必要悪のようなものだ。たとえば、塾帰りの子どもを早く帰らせるために《遅くまで残っていると口裂け女が声を掛けてくる》と大人が子どもを脅すように言う。子どもは早く帰るようになり、親としては万々歳。しかしその恐怖で呪力が募り、現実に呪霊というカタチで現れたりする。

もちろん呪術師としてはたまったものではないが、非術師の生活リズムや心理の中から生まれてくるものを防ぐことは難しい。それゆえに頻繁に世間で出回っている噂を調査してまわることも必要な仕事である。

そうして与えられた任務の内容はこうだ。

《近頃、東京23区内で出回っている噂。願いを叶えてくれる電話番号というものが中高生を中心に噂がある。確認されている最年少は9歳。上は56歳である。男女の割合は3対7で女性の割合が多い。決まってその電話番号は困った時に紙で現れ、その紙に書かれた電話番号に電話をすると願いが叶うとされている。電話をすると自分の身内の声で対応され、あまり長時間は繋がらない。調査すると、およそ平均30秒程度しか繋がらないようである。中には死んだ娘と話したいといった、故人との接触を望んだケースもある。その場合には対応する電話の声が故人だったというケースも確認されている》

およそ目を通して補助監督に顔を向けると補足説明が足された。

「つい先程、調査を続行していた別の補助監督から消えてしまった人物もいるとの報告も受けました」
「消えてしまった、ですか」
「はい。現在行方不明者として警察側で捜索中です。捜索願を出されているご家族の中に、最近変な電話番号を拾ったと本人が家族に言っていた方がいらっしゃいました」
「それがコレなんじゃないかということですね」
「はい。現在確認出来ている人数だけでも3人は行方不明になっています」
「等級、1級では済まないんじゃないですか」

私は思わず起こりそうな頭痛に先回りして頭を抑える。かもしれないですね、と補助監督は溜息と共に呟いた。1級呪術師である私にこういった話が来ないわけではないが、厄介事は出来るだけ避けたいと思うのは人間の正常な心理だろう。とりあえずは特級案件だと思って任務にあたることにして書類を閉じた。


クリスマス明け、墓参り後1番最初の任務にしてはかなりヘビーだ。

同級生である家入硝子がすっかり吸わなくなったタバコを手に取って、5mmほどハサミで切り落としてから火をつける。いそいそとつけた火は赤く、窓の結露とタバコの煙が曇り空に溶ける。

今年の冬は雪が多く、各地で積雪の記録を更新していた。災害レベルの積雪は人の命を奪うこともある。《願いが叶う電話番号》なんて、そんなもの誰だって求めてしまう。災害があるとそれは尚更だ。故人を思う人間の気持ちは痛いほど分かる。

大切な人が死のうと回り続ける地球を、回り続ける経済を、何も変わらない世界を憎んで。だけどもそんな何も変わらない世界に癒されてしまう自分をも憎んで。そうやって人は故人の輪郭を憎しみで固めて何度だって思いを馳せる。大なり小なり、それは誰にでもあることだ。私だけではない。


深く吸い込んだ煙を腹の底から吐き出すと、すぐ隣からわざとらしい咳が聞こえた。

「くっさ」
「褒め言葉だと思ってスルーしてあげる」

私の手元に置かれた黄色いタバコの箱を手に取った五条悟は再度くっさ、と呟いたので肩を軽く叩いた。補助監督だったら数10cmは傾くだろう力にビクともしない五条悟は口元だけでにやりと笑う。

「あの任務受けたのお前でしょ」
「あの任務、って……は?まさか私に押し付けたワケ?」
「善意ですぅ」

どこが善意だ。
拳を2つ顔に近付けてやる“ぶりっこポーズ”の五条に舌打ちをした。五条が時折やるお決まりのポーズだ。イラッとついでに再びタバコをゆっくり吸う。ちりちりとタバコを上る火を見つめるが、すぐにその火は遠ざかった。

「ちょっと、返してよ」
「願い事」
「は?」
「願い事叶えてくれる、なんて無責任だよね」

火を握りつぶした五条は私の胸ポケットから携帯灰皿を取り出し、しっかり閉まってから再度私の胸ポケットに携帯灰皿を戻した。指先が私の胸に触れようとそんなことは一切介さない五条は何事もなかったように言葉を続ける。任務の内容は五条も目を通したのだろう。

そうだね、と短く同意する。それはそうだ。どうせ他人が願いを叶えることなんて不可能なのだから、人の願いを一身に背負うような真似は無責任だ。呪霊に責任感などないのだから至極当然ではあるが、それでも思わずにいられない私たちが脳に描いているものは同じなのかもしれない。

右ポケットに入れたビタミンCを売り言葉にしたのど飴をタールの代わりに口に含む。
誤魔化す行為は板についた。

「お前さ、その呪霊に会ったらどうする?傑に会いたいとか言うの」
「デリカシーも何もないな、本当に」
「いやだってさ。昨日、遺骨も何も入ってない墓に花入れたのだってお前でしょ」

よく言う。だってそのことを知っているということは五条だってその墓に行ったということじゃないか。


呪詛師の墓はない。

五条と私と硝子がお金を出し合って作った小さな墓が、自然豊かで綺麗な湖の畔にあるだけだ。きっと参るのは私たち同級生だけだろうが、硝子は墓をたてたその日に「もう二度と来ないから」と宣言していた。

それを冷たいとは思わない。実際ここには夏油傑はいなくて、そして実際墓参りなんて生者のエゴなのだ。それをよく分かっている硝子は大人だ。

いつだって大人になれないのは五条と私だった。

───────あの日。
───────あの時。

号泣して周りに当たり散らす私たち2人に食事をとれ、睡眠をとれと目を腫らしながら言ったのは家入硝子だった。大人っぽい硝子だって、化粧の技術は10代の女子なのだ。泣いて赤くなった目元を隠しきれていなかった。
そんな彼女の10年後、「もう来ない」という宣言はいっそ良かった。

10年後のクリスマスの朝に五条から来たメッセージを見て私はまた泣いた。意外と平気だと言ったその綺麗な横顔が嫌で仕方なくて、軽く頬を叩くと五条はほんの少しだけ瞳を揺らした。寒いと口にした五条の横に座って1日を過ごす。そして私たちにコートをマフラーを持ってきた硝子と並んで私たち3人の影は1人分欠けた状態で伸びた。

本当に夏油傑のいない世界をたった1年で古傷と言えるような奴ではない私たちだからこそ、「無責任」だと思った。

「もしさ、私が昔の夏油を止めたいって願い事したらどうなるかな」

カラコロと、のど飴を鳴らしながら、ふわりと降り始めた雪を窓から眺めた。結露も相まって白く染まる窓枠の中には泣きそうな私たちが今日も映っている。

「そんなの、憑り殺されて終わりでしょ」

これが現実だ。





タバコ2本分の休憩をしてから、すぐに任務にとりかかった。とは言え、限られた条件下でのみ現れる呪霊というのは祓うことが難しい。そも、出会うこと自体が難しいのだ。

まずは渡された書類にある連絡先を拾った各所をまわることにした。リストアップした場所を補助監督に送ると、15分ほどでその近辺の別の任務内容が送られてくる。低級の任務を複数こなしながら各所をまわる。

皇居すぐ横の桜田門駅。
東新宿のセブンイレブン前。
板橋の学習塾横。
エトセトラ。

場所にとりとめはなく、そこそこ人の通りは多いことはよく分かった。そんな人の多い中、目の前の小さな紙に目を留める。そこにふと違和感を感じた。ゴミはそれだけではないだろうに、なぜ小さな連絡先の紙を拾ったのだろう。

丁度目の前の人が落とすところを見た。
いや、それで連絡先を持ち帰るだろうか。

調査に任務を繰り返したところですっかり日は落ち、気付けば夕方6時をまわっていた。仕方なく今日は切り上げようと踵を返した時だ。目の前のファミリーマートから学生2人が仲良く肩を並べて出てきた。白い紙の袋から丸い肉まんを取り出し、半分に割って笑い合う。

ああ、そんなこともあったなと思わず思い出してしまった。

上手く割れなくて少し大きい方と小さな方が出来てしまってジャンケンをしたこと。ジャンケンで必ず勝つと言うくせに、夏油はいつもグーを出してくれること。私がいつもパーを出すこと。君には勝てないと夏油は鼻を赤くして笑うこと。マフラーが落ちるのが嫌だからと、 私があげたネックウォーマーを愛用してくれたこと。手を繋ごうとして、わざと冷たい手を小さくぶつけてくること。
全部分かっていたのに私は何も言えなかったこと。


離反して10年、亡くして1年。
それだけ経ってるのに、肉まんの思い出、たったそれだけで目が溶けてしまうくらい泣いてしまう私はいつまでこうしていればいいのだろう。


揺れる視界の中で人並みが私を避けていく。
吹き荒ぶ冬将軍でさえ私を避けていく。
思い出が私を過去に縛り続けている。


その時だった。1人の肩が私にぶつかった。

すみませんと言おうとして顔を上げると、その少女は私と同じ顔をしていた。学生時代の私と同じ長さの髪が風にふわりと揺れる。思わず息を飲んだ私を一瞥した少女は逃げるように走り出した。すぐにハッとしてその少女を追い掛ける。

「待って!」

少女の足はそんなに早くないのに距離は縮まらない。少女の首にはもう巻かなくなったマフラーが巻かれている。深い緑色の長いマフラーは1年の冬に夏油から貰ったものだ。

間違いない。あれは私だ。

縮まらない距離のまま少女を追い続けていると、前方から何かが飛んできて顔に当たった。ばちりと音がして、咄嗟に足を止める。ぶつかってきた物を手に取ると、それは連絡先が書かれたルーズリーフの切れ端だった。

首を掴まれた気分だった。喉に何かが詰まったような息苦しさ。周囲の音も何もかも消えてしまって、ただ目の前の数字の羅列だけが脳に焼き付けられる。

《願いが叶う電話番号》

これが、そうだと言うのだろうか。

なるほど。呪霊は賢い動きをしている。そう思う自分と、早く電話をしたいという自分が殺し合いをしていた。より賢い方法をとるなら、すぐに五条に電話をして六眼で見てもらうことだろう。そしてこの呪霊を祓う。
そうすれば一件落着だ。電話をしてはいけない。いけないのだ。


激しい葛藤の末、私は足早に家に帰ることにした。連絡先の書かれた紙は注意深く小さく折り、右手の拳の中にそっとしまう。夏油の笑顔が、雪のように脳内でちらついていた。
賢い私は死んでいた。


帰宅した私は灯油ストーブのスイッチだけ押してすぐに座り込んだ。ストーブはまだカチカチと音を鳴らしてついていない。冷えて真っ暗な部屋では流石に電話番号が見えなくて、部屋の電気を慌ててつける。真っ白なシーリングライトがゆっくりと明るくなっていく。じわりと見えてくる9桁の数字の羅列。確か以前にニュース番組で9桁の電話番号は消えたと報道していたことを思い出した。
やはりこれは実在する電話番号ではないのだ。脳にこびりついた夏油の電話番号でも、もちろんない。

芯まで冷えるような冷たいフローリングに座り込み、スマホを取り出す。0から1つ1つ間違えのないようにスマホの画面をタップする。

きっと、夏油の声が聞こえるのだろう。
夏油の声で私を誘うのだろう。

馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも良いから声が聞きたいと思ってしまう。
今までこの電話番号に願いを込めてきた非術師も同じなのだろうか。残されてタールの海に沈んでいくような日々の中でもがいて、もがいて。そしてこの紙を掴んでしまったのだろうか。

本物の夏油だったら何て言うだろう。
きっと、何も言わないのだろう。

9桁を押し終えて、少し高めの発信音が室内に響く。

1コール。
2コール。

じんわり後悔し始めている自分は「繋がらないでくれ」と思い始めていた。繋がらなかったら私はこの電話を切ることが出来る。また日常に戻ることが出来る。年に1回、空っぽの墓を参る日常に戻ることが出来るのだ。

3コール。

『もしもし?』

優しい声だった。
聞き覚えのある声が優しく、温かく響く。






「ねぇ、下の名前で呼ばないのかい」

2年の春、夏油は私にそう言った。2人で行った任務の帰り道、公園の桜が満開で立ち寄ったベンチ。ふらりと立ち寄ったローソンのからあげクンを2人でつまみながら、桜を見上げた時だった。

「なんで?」

そう問い掛けた私に夏油が微笑む。日差しが桜の花弁に溶けて、ほんのりピンクの光が私たちを包んでいた。夏油はうーんと唸った後、爪楊枝に刺したからあげクンを私の口に強引に運ぶ。もごもごと口を動かす私を見て、夏油は確かに笑った。声を出して優しく笑った。

「私がかなたにそう呼ばれたいからだよ」





「……っすぐ、る、なの?」
『え?もしかしてかなたかい?』

すぐそばにいるんだから部屋に来てくれればいいのに、と少し笑みを含んだその声で死んでしまいそうだ。何もかも忘れて縋ってしまいそうな声に心が10年前に戻る。

───────あの日。
───────あの時。

何も出来なかった私に。

『かなた、願い事ってなんだい?』

願い事。頭で反芻する。

もう一度会いたい。
帰ってきてほしい。
また笑ってほしい。

いっぱいいっぱいこの10年考えたことが猛スピードで駆け抜ける。でも口から出ない。時間はないのだろう。確か資料には30秒ほどだと書いてあった。既に過ぎている17秒は戻せない。

あと10秒。

『かなた、ほら、早く』

あと5秒。

『かなた』

あと3秒。

『……大好きだったよ、かなた』

あと1秒。

「お願い。連れてって」


その時聞こえた笑い声は傑の笑い声だよね。
そうだよね。






かなたと連絡が取れなくなったと伊地知から連絡が入ったのは、最後にかなたと会話をして2日後の話だった。方々を探し回って、最後に僕のところに連絡が入った。なんとなくこうなるだろうなとは分かっている気はしていたが、それでもまた欠けた影を思わずにはいられなかった。

念の為にかなたの部屋に足に運ぶ。
行き慣れたマンションの最上階。
後で弁償することを前提に、鍵を壊して中に足を踏み入れた。急いで脱いだのだろう、揃えられていないブーツ。灯油が切れてエラー画面になった灯油ストーブ。その横に真っ黒な画面のスマホが転がっていた。急に主をなくした部屋とは思えないくらい普通の部屋は見覚えがあった。

───────あの日。
───────あの時。

同じ部屋。

このスマホをあの墓に埋めてやろう。
そして、次にこの呪霊に僕が遭遇した時。
その時にはしっかりと祓ってやろう。

「……願い事、叶ったのかねぇ」

ぽつりと漏れた白い息は雪に溶けて消えた。




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