欠けた私たちに世界をください



───────ピンポーン。

インターホンの音が平日の昼に響いた。1度きりのインターホン音にソファーから身体を起こす。ゆっくり動き出すと頭をくらりと巡る薬の残党たちに足を取られながら、なんとか玄関の鍵を回す。付けたままのチェーンの向こう側には昔馴染みの顔が立っていた。その額には汗が滲んでいる。

「入れてよ、傑」
「……悪いけど帰ってくれないか」
「帰らない。入れて」

きっと彼女は本当に帰らない。
彼女が自分と同じように頑固だということは、高専時代から知っている。

つい苦虫を噛み潰したような顔になるが、
彼女───────かなたはそれを全く気にしないように口元だけで微笑んだ。笑い方と唇を染める紅の色だけが昔と違う。

その笑みに負けてつい零れた溜息と共にチェーンを外す。じゃらりと垂れるチェーンの音の後、私が開ける前に間髪入れず、彼女は足を突っ込んできた。つやつやに磨かれている黒いブーツを鳴らして強引に玄関へ入る。悟と同じサイドゴアブーツは手を使わずに脱ぎ履きができ、空いた手にはキャスター付きのクーラーボックスの持ち手が握られていた。

まるでバーベキューにでも行きそうな大きなクーラーボックスは青と白の実に爽やかな見た目をしている。ブーツを整えて置くこともせず、玄関の段差を無理矢理突破した彼女はガラガラとクーラーボックスを室内にまで引っ張っていく。土のついたキャスターが床を汚していくのを見て、更にくらくらと目眩がした。床をのびていく二本線は迷いなくリビングへ伸びていく。玄関横のクイックルワイパーと新品の雑巾を手に取って、自分も彼女の後を追った。

「それ、拭いてくれないか」
「あーごめんごめん。ミミナナちゃんたちは?」
「学校だよ」

あーそうね、そうだったねと彼女はからりと答える。片手を上げて軽薄そうな笑みで口元だけ笑って答える姿を誰から学んだのか、私は知らない。ここ3年以内に身に付けた動作だろう。

彼女を思うと、ことさら存在を示すようになる頭痛がこめかみを叩き始める。ドクンドクンと命の巡る音がして気持ちが悪い。

すぐに手に取れるように置いてある処方された頭痛薬と抗不安薬を取り上げてザラザラと口に含んだ。1日に決められている薬のOPP袋を適当に破り、何日前に買ったのか分からない冷たいミネラルウォーターで流し込む。じわりと脳を蝕むロラゼパムが締め切ったカーテンの隙間から入り込む光を過剰に強くした。彼女に強い光が当たってその影を濃くする。

「何しに来たんだ」
「見せに来たの。これだよ」

彼女は口元だけで微笑みながらクーラーボックスを叩いた。少し重めの音は何かが中に詰められていることを示している。

「それが何なんだ」
「……それより先に、そのぼさぼさの髪と髭何とかしたらどう?やってあげようか」

やってあげようかと言う前に立ち上がった彼女は寝起きのままにされていた私の髪に触れた。いつも髪も髭も美々子と菜々子にしてもらっている。今朝は2人が寝坊して朝食もそこそこに家を飛び出していったため、私は手付かずの汚い姿だ。情けないが、自分ではそんなことも出来ない。

黙り込んだ私の反応を肯定と受け取った彼女は、肩から提げていたカバンから黒いブラシを取り出して私の髪を整え始めた。
高専時代、時折かなたは私の髪に触れていた。
小鳥が近くで囀っている。



私は非術師を殺した。
3年前の出来事である。

当時私は任務先の小さな村で非術師を3人殴り殺した。カッとした衝動的な怒りなどから来るものではなく、ゆっくりと私の腹の中で熟成されたものだった。

蓄積された毒が私の右手から球体状に飛び出てしまうところを、一緒の任務に同行していた彼女がギリギリのところで止めたのだ。その勢いは、私の右手首を骨折させるほどだった。その時の彼女の顔も声も痛みも覚えてはいない。複雑な折れ方をした右手首だけが彼女の咄嗟の思いを残した。

それでも私は非術師を傷付けることをやめられなかった。彼女を振り払い、拳が目前の女の額を砕いた。後ろでかなたが叫んでいる。もう1人は首をへし折った。もう1人は眼窩に指を突っ込んで放り投げた。そこで私の意識は途切れる。彼女が術式を使ったことは目を覚ましてから気付いた。
3年前の9月の出来事だった。



風が窓を叩いている。ガタガタと揺れる窓枠を見て、かなたが私の意識の外で何かを小さく呟いた。聞き返そうとしたが、身体が怠くて声が出ない。気が付けば私の伸びた髪は1つにまとめられ、伸びすぎた前髪は黒いアメピンで止められていた。

「髭さ、ない方がいいよ。どう足掻いても20代前半に見えないし」
「別にいいよ」
「カタギに見えないよ。ミミナナちゃんの保護者なんでしょ、傑」
「……剃ってくれよ」

待ってましたとばかりにシェービングと電気シェーバーを取り出したかなたは私の肌に触れる。伏せられた瞳に光は映らない。まつ毛の影だけがうっすらと瞳に映っている。

「傑さ」
「うん」
「どう?この生活」

静かな住宅街にひっそりと建つ一軒家は、かなたが黙ると痛いくらいに静かだ。時折囀る鳥が覗き込む窓に掛けられた遮光カーテンは防音の効果もある。かなたの息遣いだけがうるさくて安心した。

今の生活がどうかと聞かれると、正直どう答えるべきなのか私には分からない。



3年前、私は呪詛師の認定を免れた。非術師を殺害した際に術式を使わなかったこと、そしてかなたがすぐ横にいたこと、子どもを保護出来たこと、それと悟の口添えが大きく作用したことだった。勿論、呪詛師認定を急ごうとする者たちがいたことを知っている。
それを餌に、特級呪術師夏油傑を手中におさめようとする家もあった。

呪術師だって、非術師が死のうと生きようと結局良かったのだ。立場が守られればそれでいいのだ。反吐が出た。

高専の保護下にて謹慎処分。それが決定したことだった。謹慎処分期間は未定だという話だったが、悟によると、どの家に所属するかによって変わるとのことだった。所属するつもりはないと吐き捨てた私に、悟はそうしてくれと縋るように言った。

家が与えられ、美々子と菜々子の保護者という立場を与えられたことだけが幸いだった。しかし実際いつ何時も見張られている日々は神経に響いた。崩れていく体調と精神に、せめて精子だけでも寄越せと家には女が度々送られてくる。女の猫撫で声が私の性器を強引に擽って、命の種を奪っていく。そんな日々だ。

黙り込む私の口周りはふわふわとした泡が包み、電気シェーバーの機械音が響く。

「私、傑がどんな生活してるのか知らなかったの。生きてさえいてくれればって思ってたから。でもね、それって違うのね。呼吸をするために生きてるんじゃないもんね。そりゃあさ、そうだよね」

そんなことを言いながら、ゆっくりかなたの手が私の顔を滑る。かなたの輪郭を浮かび上がらせる僅かな光が眩しくて、つい目を閉じた。

「生きたいように生きるって案外難しいんだね。知ってる?私たちの代、出来損ないって言われてるの。悟がどれだけ才能に恵まれていても、人としては何かが足りない。硝子がどれだけ才能に恵まれていても、呪術師の女としては何かが足りない。傑がどれだけ才能に恵まれていても、呪術師の男としては何かが足りない。私は人してそこそこ恵まれてても、呪術師としての才能が足りないんだって」

その話は聞いたことがあった。この生活が始まり、私の首に首輪が掛けられてからだった。たかだか2級の呪術師に言われたことがある。足りない。何かが足りないのだと。

だから、こんなことになるのだと。


じゃあ、お前は完璧なのかと。
悟より才能があって素直なのか。
硝子より才能があって冷静なのか。
かなたより才能があって優しいのか。

私より。
私、よりこの醜い世界を生きるに相応しい姿をしているのかと。


「はい、綺麗になったよ」

促されて顎や鼻下を触ると、つるりとしている。しっとりした肌に引っかかるものがない。

「ありがとう」
「その方が似合うよ」

彼女は満足げに私から離れ、そしてまたクーラーボックスに触れた。土に汚れた真冬のクーラーボックスの意味。

「ねぇ。私たちがそんなに足りないなんて言われるならさ、アイツらってそんなに満ちてるの?分かんないよ、私。だからさ、欠けちゃえばいいんだよ。そしたら私たち、もう少し生きたいように生きられるのかも」

クーラーボックスの蓋に付いているロックを外す。ガチャリガチャリと仰々しく鳴るロック音。その蓋が開いた。むわりと立ち込める生臭さは身に覚えがある。

切り口の汚い女たちの生首はギッチリと詰められていた。

「傑と無理矢理したセックス女たちってこれで全員だよね?合ってる?」
「……顔が変わっていて分からないし、いちいち覚えていないよ」
「なぁんだ、確認したかったのに」

ひー、ふー、みーとかなたの小さくて赤い人差し指で生首が数えられる。完全に沈黙した生首はいっそ作り物のようだが、切断面から見える骨と肉が現実だと告げていた。

生首と一緒に収められているノコギリは真っ赤に染まっていた。ノコギリのせいか首の肉は切るというより裂けていて、様々な切り口がある。上手く切れなくてあれこれ試したのだろう。クーラーボックスの底に溜まって揺れる赤い水に私の顔が映っていた。

「……かなた、」
「なぁに、傑」
「もう皆殺してしまおうか」

その時、彼女が見せた満面の笑みが私の身体に流れて脈打った。

「これからは好きなように生きよう」


悟は二つ返事で賛同し、硝子は賛同しない代わりにお前らの好きにしろと吐き捨てた。
かなたに本当に良いのかと確認した私に、彼女は神様に言うように私の手を握って言った。

「私たちが生きていける世界をください」





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