赤い懺悔室






「働きアリっているじゃないですか」

懺悔室と呼ばれる小さな部屋で女の声がした。

住宅街の隅にひっそりと存在している教会。普段は水曜日と日曜日に小さなミサが行われている白い建物は、神父1人とミサの時にだけ顔を出す3人の修道女でまわっていた。もっぱら普段は神父が1人で掃除をし、掲示板に神の教えを提げ、信者と話をすることが主である。それでも6月近くなると身内だけの小さな挙式がしたいと幸せの絶頂である夫婦が足を運んだ。

そんな世界の隅に存在する小さな教会の更に隅には懺悔室が存在していた。

埃が被らないように毎日掃除はされているものの、日本人に懺悔室の存在はそれほど大きくは無い。馴染みがないのだ。人の罪悪感や秘密というものは、己だけで抱えていくことが難しい。それは世界中、人類であれば皆一様だが、馴染みがなければまず秘密の吐露の候補に上がることが少ない。

それでも小さな懺悔室は常に初老の神父によって清潔に保たれていた。季節は未だ冬と言える時期。冷暖房の完備されていない懺悔室を白煙に似た息を深く吐き出しながら拭いていると、カタンと小さく音がした。神父がその音に顔を上げると、見えない向こう側に人の気配がある。

濡れ雑巾をそっと外のバケツに戻し、扉に鍵を掛けた。カチャン、という鍵音で見えない人物は小さな声で話し始める。

「働きアリっているじゃないですか」

女の声だ。声はまだ若く、張りのある高い声でひそりと声は懺悔室の中に響く。
神父は椅子に腰掛け、そっと十字架を握り締めて返事をした。少し声枯れた神父と女の声は冷気に包まれながら静かに続いた。

「ええ」
「神父様、いらしたんですね」
「はい。あなたの心の声を聞きなさいという神の思し召しなのでしょう」
「神ですか」

女の声に少し吐息が混ざった。自嘲のような皮肉めいた笑みが見えない扉の向こう側でうっすらと浮かび上がる。
しかし神父はそれを咎めるでもなく、落ち着いた声で女の声に話しかけた。

「あなたの話を聞かせてください」

3秒ほどの沈黙の後、女は話し始めた。

「働きアリって沢山いるんです。小さな頃、その働きアリをたくさん殺したことがあるんです。巣穴に水を注いだり、一生懸命食べ物を運んでるのを石ですり潰したり。あの頃、その行動に意味はありませんでした。幼少期特有の残酷さ、とでも言うんですかね。でも、今もそうなんです」




急激に痩せた同級生は項垂れていた。日頃から大きめの服を緩く着こなす服装が多いためか、その痩せた身体はある程度誤魔化されていたものの、それには限界があった。肩を滑る縫い目、胸部で膨らまない服の皺、以前よりキツめに縛られたスウェットの紐。見ているだけで泣いてしまうようなその痩せた背中を私は追い続けていた。

たとえ『夏バテだ』と誤魔化されようとその背中がフッと消えてしまわないように隙を見つけては夏油傑に話し掛け続けた。

夏前のこと。梅雨の真っ只中にじっとり湿った空き教室の隅に夏油が蹲っているところを見つけた。廊下から離れた窓側の隅に小さく蹲ったその姿は弱々しく、蠢く虫の幼虫を思わせた。すかさず教室の扉をスライドさせる。すると途端に噎せ返るような、すえた臭いが鼻についた。むわりとした湿度に乗ったその臭いは夏油からしていることはすぐに分かった。目を虚ろにして口の周りを汚した夏油がすぐに振り向いたからだ。
思わずこちらまで吐き気がして口と鼻を押さえる。夏油はそこから動かない。しかしすぐに吐き気のせり上がる声がして、夏油は身体を前後に震わせた。

固まっている場合ではないと走り寄ると、夏油の座り込んでいる部屋の隅には白い皿に乗せられた大きなおにぎりが2つ置かれていた。綺麗な三角形のおにぎりは吐瀉物に汚れている。どうやら1つは食べようと齧った跡があるが、口をつけられたのはそれだけのようだ。

「……夏油、これ」
「……悟が、私にって、握っ……う」

何度も何度もせり上がり、まるで痙攣しているかのように身体を震わせる夏油は虚ろな目でおにぎりを見ている。

夏油はこんな男だっただろうか。
こんな今にも糸が切れていなくなってしまいそうな男だっただろうか。

昨日だって五条の隣にいた時は痩せたとは言え、その大きな身体で、大きな足で地に足をつけて立っていた。たった数時間でこうなるわけがない。

1つだけ置かれた教室机の上に乗せられた椅子を下ろし、引き寄せる。ガクンガクンと頭を振り回す夏油を立たせて椅子に座らせた。顔面蒼白とはこの事だろう。見れば吐瀉物に固形物は混ざっていない。吐く物もないということだ。胃液だけが口から溢れて身体を震わせている。せめてと背中を摩ると、手には骨ばかりが当たった。

「……ねぇ、夏油」

反応はない。項垂れた夏油は未だ汚れたおにぎりを見つめている。

「もう……やめようよ……。ねぇ、呪術師なんてやめちゃおうよ……」
「……やめない」

私の縋る声に吐息のような小さな声が返ってきた。

「私はやらなければ、いけないんだ……だから、私はこの術式をもって生まれてきたんだ」

弱者生存
弱きを助け、強きを挫く

夏油が前に言っていたことを思い出す。
そんな事のためにどうして夏油がこうならなれければならないのだろう。

「……違う、違う!夏油が生まれたのは、」

どうしたら笑ってくれる。
どうしたらこんな惨めな思いをしないで済むんだ。どうしたら存在し続けてくれる?

「私と出会うためだから」

夏油を苦しめることばかりの非術師のためなんかではない。






「私はそう、言ったんです」

女の声が時折震えた。身体の芯から震えるような寒気が足元から上がる。
そういえば今日は朝から雪が降るかもしれないと天気予報の女が明るく話していたことを神父は思い出していた。姿の見えない女の姿に天気キャスターの女の姿が被る。

「……それで、あなたは何に苦しんでおいでなのですか」
「問題はここからなんです、神父様」
「と、言いますと」
「ええ。たとえば神父様、今あなたがここから出た時に周りが血の海だったらどうされます?」

神父は息を飲んだ。女の声はいたって冷静な声音であるがゆえに、そこがかえって不気味さをもっていた。思わず扉の鍵に手をかける。自衛のために懺悔室には鍵をかけることがこの教会では慣わしだった。しっかり鍵がかかっていることを確認し、そして神父はゆっくり呼吸して平然を装った。

「神に祈ります。我々を正しい道に導いてくださります」
「へぇ、人の死体がゴロゴロ転がってて、することがソレですか。いや、いいんです。それが神父さんの仕事ですもんね。ええ、いいんです」

女は繰り返し繰り返し「いいんです」と呟き続ける。その呟きは少し離れた扉の音でプツリと途絶えた。扉の方向から恐らくは教会の扉が閉じられた音だろうと神父はすぐに理解した。しかし、背筋を滑る冷や汗が気を焦らせた。すぐに鍵を開けて懺悔室を飛び出したのである。

「まだ話は続くんですよ。神父様。私と出会うために生まれてきたんだと信じ込んだ夏油という男がどうなったのか」

女の声は背中側から小さく聞こえていた。遠ざかる女の声に安心しながら足を素早く動かしたが、神父の身体はまばたきをしている間に床に転がっていた。神父は何が起きたのか理解も出来ない。

女は聞き慣れた、肉が倒れる音に手を合わせて目を閉じた。祈るように手を合わせたが、どうか神様なんて言う前にすぐ扉は開いた。

「かなた、帰るよ」
「……うん」

私と出会うために生まれてきたんだと信じ込んだ夏油は、私以外どうでも良くなっちゃったんですよ。

「さ、早く帰ろう。私たち2人だけの家に」




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