BREATH



懐かしい匂いがした。
一瞬、薬草のような香りがしたかと思えば、鼻腔に残る少し丸めのウッディーな香りには覚えがあった。懐かしい、同級生の香りだった。

春と呼ぶにはまだ幼い冬の老い頃、最高気温は15度という半端な時期である。すっかり暖かくなった風が揺らす枝には、ふっくらと丸みを帯びた梅の蕾がぽつりぽつりと連なっていた。その下を受験生らしい学生が難しい顔をしながら参考書を片手にふらふらと歩いていく。怪我にだけは気を付けろよ若人、なんて一回り下である学生にエールを送りつつ、大の大人である私は任務帰りである。

三十路一歩手前の自分は参考書の代わりにレモン酎ハイをコンビニ袋いっぱいに詰めてぶら下げている。つい先程まで、コンビニの1番小さい袋にロング缶6本は無茶すぎるだろうと独りでぶつくさしていたものだ。受験生を見て背がシャンと伸びただけでもまだマシだと思いたい。ギチギチの袋が破れてしまう前に帰ろう。そう思って歩幅を広げたその時の事だった。

ふわりと香ったその匂いに思わず足を止めた。振り返る。すぐに振り向いたが、その匂いの人物は急ぎ足で雑踏へ消えていく。後ろ姿はまだ若い学生服だ。濃紺のブレザーと灰色のスラックスには色の濃いチェック柄が入っている。高専より遥かにお洒落な制服であるが、その後ろ姿には10年前に袂を分けた同級生の姿が重なった。


「夏油って何の香水つけてるの?」
「あ、分かる。夏油ってなんかエロい匂いするよね」
「それ言われると付けづらくなるからやめてくれないかな」

話題を振ったのは4人で向かった任務の帰り道だった。等級は2級であり、到底特級である五条と夏油の出番があるとは思えない。しかし、今回に限っては2級である私の術式が有効ということでメインには私が任命されていた。補助に特級2人とヒーラーとは、私は贅沢者である。

向かった任務先は多くの障害物に囲まれた古い日本家屋であった。平屋のその家は一般的な庭付きの戸建ての3つ分はあろうか。そしてその家を囲む障害物とは、有り体に言えばゴミであり、俗称ゴミ屋敷≠ナある。そんな所と言っては失礼かもしれなかったが、それでも五条と硝子はあからさまに嫌な顔をしながら「入りたくない」と口にした。

「そんなこと言わないよ。任務なんだから。ほら、〇〇行ってらっしゃい」

結局そんな言葉で「自分は外で待機しているから君だけで行ってこい」と遠回しに言ったのは夏油である。こういう男です、こいつ。

言いたい文句はあったものの、ゴミから立ち上る異臭を吸いたくなくて黙って任務遂行した私は偉い。扉を開けた瞬間に黒いモヤのように飛び出したハエの大群は、もう溶けきって真っ黒な液体になった生ゴミの周囲を嬉しそうに飛び回っていた。そのゴミの中からは3人の遺体と呪具を回収して終了だ。

呪霊は周囲にいた五条と夏油が祓い、私自身は貴重な呪具の回収が主な作業である。聞いたところによると今回、回収した呪具の価値は想定2600万らしい。恐ろしい。

事前に決められた手筈通りに術式を用いて呪具をしっかり回収する。渡されていた術式を無効化させる札を貼り、早急に箱に納めた。これ以上ここにはいられない。衛生観念的に。

汚さと異臭と特殊な呪具2600万円相当という三拍子揃ったストレス源に当てられながらゴミを掻き分けて外を目指す。勘違いしないで欲しいのは、ゴミは置いてあるというレベルを超えていることだ。最早私はゴミの海を泳いでいる。何度も胃液がせりあがり、口の中に酸味が広がっていく。それを耐え、何度も口の中の酸味を飲み込んで外へ出た。

そんな私に対し、五条は3歩後ろに下がり、硝子は8×4と書かれている消臭剤をこれでもかと私に吹きかけた。少し傷付く。夏油はやめなよ、と一声掛けてくれたが、五条の倍後ろに下がっていた。

そんな時に話題に上がったのは夏油の匂いだったのだ。消臭剤の匂いで鼻がやられてはいたものの、それでも感じ取れる男性の香水。爽やかだが少しスパイシーな香水はフレッシュな柑橘の匂いを内包している。

「なんて香水?」
「女子が知ってるか分からないけど、ダビドフのクールウォーターだよ」

勿論、分からない。しかし意外にも、ちんぷんかんぷん状態の私の横で硝子は頷いていた。あーあれね、という反応は流石だ。夏油も硝子も同じ高校生にしては大人びているタイプだ。時折、酸いも甘いも経験したぜ、とでも言いたげな顔をするが、いやいやどんな16歳だよと引いている。めちゃくちゃ化粧した小学生のコギャルを見て抱く感想に近いのかもしれない。お前ら、同い年よ。

悔しさで調べたクールウォーターとか言う香水は、どうやら人気らしい。特に男性がつけていて女性人気が高いものらしい。

「なんでこれにしたの?」

モテたくて、と言ったらどうしようかと身構える。確かにいい匂いだとは思うが、長髪ピアスボンタン地下足袋にお色気香水とまできたら私はもうどうしようもない。

実際問題、夏油は少々チャラい。例えば、プリクラを撮る時にさりげなく私の肩を抱く。逆ナンされたら笑顔で番号を受け取る。道案内した外人に頬をキスされたら同じようにキスをし返すなど、私から見たら仰天物である。そんなことを思い出しながら、いい匂いの根源を疑わしく睨んだ。すると意外にも、夏油はほんのりと頬を染めて気まずそうに小声で呟いた。

「……〇〇が好きかなって思ったんだけど」

え、と声すら出ない私の横で硝子が口笛ですらない「ひゅー」という声をふざけて漏らす。

「……今生ゴミの臭いですけど!」
「それは今だろ。普段付けてるのはエルメスのナイルの庭じゃないかな」
「な」

んで分かるの、と言おうとしたのに夏油の満面の笑みに言葉は溶けて消えた。4人で歩いているはずなのに、すっかり私と夏油2人だけで話しているみたいだ。雑踏とも呼べないようなちらほらとした人影すら蚊帳の外。同級生2人も蚊帳の外。

つい呼吸が浅くなる。バクバクという心拍数だけが私を支配した。それだけで精一杯だというのに、夏油は更に続ける。

「香水の相性もいいね。……この2つ、混ざると少しえっちな匂いになるんだ」

しっかり耳元で呟かれた私はそこから叫びながら走り去ったのだった。高専までどう帰ったのか、記憶は無い。



あったなぁ、そんなこと。今思うと、自分の間抜けっぷりについ苦笑が漏れた。盛大に夏油にからかわれたのだ。
恥ずかしさと思い出は油と水のよりも遥かに相性が良く、よく溶け合う。ついでに、その時硝子はどう思ったんだろうかなどと要らぬ心配まで生まれてきた。
しかし、そんなことからすでに10年近く経つのだ。意味があるのかと問われれば、間違いなく意味などないだろう。

漏れそうになる溜息を飲み込む。すぐ近くでは小さな子ども連れの親子が花を眺めていた。「これなぁに?」と聞くまだ4頭身に近い子どもは母親の足元に抱き着いている。
「それはワスレナグサだよ」と母親の落ち着いた声がした。子どもにそのチョイスはどうなのだろうと思いつつ、ちゃっかりワスレナグサの花言葉を考える。花言葉なんて普段調べたりも考えたりもしないため、その思考はすぐに酒のツマミをどうするかに飲み込まれていった。


帰宅早々、レンジでチンして食べる餃子をしこたまチンしてから、レモン酎ハイのプルタブを跳ね上げた。誰もいない静かな部屋の片隅で、評判の悪いドラマをBGMに流す。棒読みのセリフがひっそりとテレビから流れ出し、それを合図にロング缶を傾けた。ごくりごくりと喉が鳴る。一気飲みは良くないんだっけ。しかし、そんな理性は1秒にも満たない刹那に消えていった。流し込めるだけ流し込み、ふにゃふにゃの餃子も口に放り込む。孤独な独身女感が尋常じゃない。
いや、事実私は孤独なのだ。

あの時、夏油の隣に私がいたら何か変わったのだろうか。
からかわれた時に「私も夏油のことえっちな目で見てるよ」なんて返せば良かったのだろうか。
それとも、それとも。

なんとなくスマホを手に取り、ヤフーオークションのページを開く。検索するワードは『ダビドフ』スペース『クールウォーター』である。すると、「すべて」の欄には233件と表示された。当時の価格は知らないが、170円やら310円と並んでいる。流石にそれほど安くは無いだろう。相場を考えたって、小さいサイズのもので5000円はしただろうに。

「……やっすい思い出」

ヤフオクを閉じる。たった310円の思い出を、未だに私は愛している。




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