愛の沙汰も地獄まで
『此処、地獄の入口』
地獄をご存知だろうか。
それこそ現在置かれている状況が地獄だという者もいるだろうし、生前罪を犯して死後行く場所だという者もいるだろう。私が語るのはそのうちの後者の話だ。
地獄と言えば燃えていたり、巨大な針山があったり、鬼に殴り潰されたりしているものを連想する。物騒極まりない想像が基本だ。私自身もそう思っていた。罪人が落ちる、永遠に苦しむ場所。
しかし実際はほんのり青白い蛍光灯が煌々と光っており、清潔なルームフレグランスが扉横の靴箱に乗せられていた。
靴箱には黒いスリッパが入れられており、その向かいには会議室にあるような長テーブルが二組ある。そのうちの一組にパイプ椅子が向かい合わせで置いてあり、とても現代的である。綺麗に清掃されたバックヤードのような部屋だ。
奥にはステンレスのロッカーが設置されており、その横にあるホワイトボードにはシフト表が貼られている。
きっちりとパソコンを使って管理されているのだろう、その表の下には日めくりカレンダーが置かれていた。
日付は2017年12月25日。
クリスマスだ。
私が死んでホヤホヤぐらいだろうという時間。亡くなって数時間後に通されたこの部屋の名前は『地獄の入口』らしい。扉の横にあるシルバーのルームプレートにそう書いてあったからだ。職場のバックヤードが地獄の入口とはまた皮肉が効いている。
目の前には口をへの字にした女性が私の資料を読んでいた。履歴書のようなその資料を私は書いた覚えはなく、証明写真のところには血塗れの死に顔が貼られてた。記憶が確かなら私の片腕はどこかへ吹っ飛んでいったはずだが、今の私は五体満足。不思議な気分だ。
見知らぬ女性と対面する気分はさながら面接。就職試験なんて受けたことはないのだが。
「夏油傑、享年27歳ね。生前の親友に自分を殺させている、と。間違いないですか?」
「まぁ……結果的にはないかな」
「生前の記憶は? はっきりしていない部分はありますか?」
「あー、うん。意識はハッキリしているけど、記憶はぼんやりしているかな」
「よし、書類に間違いなし! では、閻魔様のご指示で三毒に囚われているあなたの案内を任されています」
「……案内? 地獄を?」
私の声で女性は書類から顔を上げる。いかにもアジア人といった様相の女性の額には二箇所盛り上がりがある。
いわゆる角と呼ばれるものが生えていた。
じっと私の目を見つめて、おもむろに右手の親指と中指をパチンと鳴らす。途端、私が着ていた五条袈裟は黒い洋服へ変わった。
蛍光灯の光がぬるりと反射するその洋服は飽きるくらい見慣れた制服。履き慣れた地下足袋、髪は少し短くなり、ひとつにまとめあげていた。首元が涼しい。
「私は獄卒です。普段は地獄であれやこれやしておりますが、今回は輪廻を巡るお手伝いをします」
「それよりこの格好は」
「あなたの三毒を表すのに相応しい格好になっただけですよ。人それぞれ罪のカタチは違いますからね。……心当たり、あるんでしょう?」
私は思わず言葉に詰まるが、実際問うた彼女自身はそこまで興味がなさそうだ。髪の長い小柄な女性は右手に金棒を持っている。身長の半分以上はあるだろう金棒を片手でひょい、と持ち上げて溜息をつきながら肩凝りをほぐすように肩を叩いた。ゴツゴツとした殺人的なまでに危険そうな武器は彼女の肩叩きの道具らしい。
金棒の使い方としてはどうなのだろう。
「さて、ご案内しますね。案内と言っても畜生道と餓鬼道は通るだけなのでほぼスルーですけど。目的地は地獄ですから」
「地獄……ここは違うのかい」
「ここは入口というだけですよ。正確には六道の内側の世界です。ここから移動して、あなたは輪廻転生します」
「人殺しが、かい?」
「だってあなたが殺したのは人間じゃないのでしょう?」
私は知りませんけどね、と立ち上がる彼女を追って立ち上がった。
意味深な言い方は資料の中身を読んだからなのだろう。
彼女は見覚えがあるような黒い服を着ている。彼女、もとい獄卒はパイプ椅子を折り畳み、壁に立て掛けてからロッカーへと向かった。シルバーの少しひしゃげたロッカーには黒のマッキーで大きく『畜生』と書かれている。治安の悪い壁の落書きのような書かれ方だ。
私に向かって手招きをする獄卒に導かれるようにロッカーの前に立つと、首にじゃらりと何かが掛けられた。
「これは?」
「このままだと他の囚人と間違えられるかもしれないじゃないですか。厄介なんですよ、他の担当獄卒とやり合うことになるのは」
「地獄にも人間関係問題があるのかい」
「生きてようが死んでようが、人間ってのは厄介なものなんですよ。地獄らしいでしょ」
確かにと納得せざるを得ない。
何度か理解を示しながら頷き、首から掛けられたプレートを手に取る。プレートに書かれた【転生許可有り】という言葉はひどく事務的で分かりやすいのは悪くなかった。裏返そうとする私の手を獄卒の小さな白い手が止めた。
「行きましょうか」
「君に名前はあるのかい」
「ありますよ。厄介じゃないですか、他の獄卒と同一だと思われるのは」
「じゃあ名前を名乗らないことに意味は何かあったりするのかな」
「……かなたと呼んでください」
私の返事を聞くことなく、かなたと名乗った彼女は左手からぶら下げた鍵束の鍵をひとつ手に取りロッカーの鍵穴に差し込んだ。
すぐに固そうなガチリ、という音がする。
彼女は体重を使って重そうにロッカーの扉を開いた。扉の向こう側は真っ暗闇で部屋の空気が吸い込まれていくのが分かる。黒々とした血の匂いが漂い、まとわりつくような湿気が首元に絡みつく。
確かにこの先は地獄らしい。
ごくりと生唾を飲み込んだ瞬間、彼女は私にふりかえることもせずにその中へ消えていった。私を置いて。部屋には私しかおらず、囚人の管理にしては杜撰に感じる。どうせ逃げられないからだろうか。もちろん、逃げるつもりなど毛頭ない私は禍々しい雰囲気漂う真っ黒な闇と向き合う。そして目を閉じながら右足を突っ込んだ。
『此処、畜生道』
着いた、と感じるのに時間は掛からなかった。一瞬の強い浮遊感。そしてすぐに湿り気を帯びた音と感触。鼻の付け根を突かれたような強い血の匂い。嗅ぎなれた血の匂いは異臭を放っている。
靄のような空気は変わり、あちらこちらから人の叫び声が響き渡っている。瞬きを繰り返す必要がない程度の薄暗い空間には道端に雑草が生えるように、まばらに死体が転がっていた。
いや、死体はバラバラになろうと潰れようと、すぐにカタチを戻す。
そしてバラバラにした相手につかみかかって行く。首に噛みつき、腕をもぎ取り、脚をへし折り、臓物を掴み出す。およそ人間同士の所業とは思えない惨状に思わず足元がふらついた瞬間、背中が叩かれた。振り向く前に私の横に身を乗り出したのは獄卒だった。
「無事のご到着ですね」
「ここは……畜生道かい」
「はい。ここでは最後の一人になるまで戦い、残った一人は天国へ行ける話になってます。時間制限付きですけどね」
「時間を過ぎるとどうなるんだい」
「やり直し、ですよ」
かなたはすぐ真横で行われている殺戮の返り血を肩に浴びながら平然と解説をした。どうしてそんな話になっているのか、聞くのは野暮だ。ここはそういう¥齒鰍ネのだ。
血を血で洗う、己が救われるための醜い争い。それは私が現世で行った大義≠フ戦いの末に存在する争いに見える。理解していた。非術師を見せしめに殺し、呪術師の楽園を作ろうとしたところで呪術師だって一枚岩ではないのだから。
「後悔しているんですか」
私の表情の微細な変化に反応して獄卒がそう言う。私はすぐに首を振った。
「まさか。するわけない。私が決めた未来だ」
「なぜ、そう決めたんですか」
なぜ。
問われた言葉に思わず足を止めると、人が倒れ込んでくる。ぐしゃりと目の前で頭を叩き潰された女が私の胸元に崩れた。びくりびくりと痙攣した小さな手が私の制服を掴む。血塗れの手は細くて小さい。
『傑、泣かないで』
『頼む、死なないでくれ』
『だい、じょうぶ。また、必ず、会おうね』
『ああ、ああ絶対に。絶対にまた会おう』
血の絡んだ黒髪がべたりと手に張り付く。
崩れた女はぶるりと大きく身体を震わせ、潰れた頭が元の丸いカタチへと戻った。身体を受け止めた私を見向きもせず、その女は自分を潰した別の女の元へ走っていく。
乱れる黒髪に大量の血。口が自然と彼女の名前を呼んだ。鎖した記憶がぎぃ、と軋む音を立てながら僅かに開く。獄卒を名乗る鬼のような様相の彼女は確かに、生前の彼女の面影を残していた。
「かなたなのかい……?」
「思い出すタイミングここなんだ」
面白いなー傑は、と先程までの業務的な喋りを放棄して彼女は笑った。どうして何も思わなかったのか。彼女が着ている制服は高専の制服そのものじゃないか。きらりと光るボタンは紛れもない呪術高専のもの。額にある角は当時なかったが、それ以外は亡くなったときとなんら変わりは無い。
私は笑う彼女に手を伸ばすが、避けるようにかなたは首筋についた赤い返り血を慣れたように左手で拭いながら歩き出した。
荒れ狂う人の波を縫って進む彼女を追うように歩みを進めるが、なかなか周囲の人間が邪魔で進まない。血で前が見えない。狂気の中を真っ直ぐ背中を伸ばしながら進む彼女が私に振り向いた。
「傑、こっちだよ」
細くて小さい手が私に伸ばされる。ぐ、と足を踏み込んで彼女の腕に縋り付くように掴んだ。その勢いのまま彼女を背後から抱き締める。変わらない。多少細くはなっていても、彼女は亡くなる前の彼女のままだ。
「……傑、行かなきゃ」
柔らかい手が彼女をがしりと掴む手をやんわり制した。
周囲の人間全てを蹴り落とそうとする人間の醜悪な雄叫びに揉まれながらかなたは真っ直ぐに進んでいく。
しゃんと伸びた彼女の背中を見ながら先程の彼女の言葉が脳内に蘇った。
なぜ
そういう
未来を選択したのか。
なぜ、というのは彼女の死が始まりだったように思う。
高専二年生の初夏のことだった。
蝉が鳴きだし、彼女と夏に花火を見に行く約束をした直後のこと。今年最初のそうめんを啜り、彼女を見送った。
三時間後には頭が潰れた遺体として高専に届けられた。死んでいた。彼女は非術師に殺されたのだ。
自分が助けた非術師に『化け物だ!』と罵られ、そのうえ石で頭をかち割られた。その非術師は虐待を繰り返す危険人物だったことを後から知る。
呆然と立ち尽くす私に掛けられた言葉は
「まだ身体があって良かった」だった。
良いわけが無い。ふらつく精神を支えるためか、私はよく夢を見た。彼女の死に目に間に合う夢だ。また、と約束をする。
しかし、彼女は結局死んでしまう。どれだけ小さくて白い手をさすろうと、冷たいまま。
とにもかくにも、私の初恋は一人の非術師にかち割られたのだった。私は彼女が好きだった。しゃんと伸びた背筋と口を大きく開けて笑う姿がどうしようもなく好きだった。
彼女の葬儀の直後にあった星漿体護衛任務では幼い善人の少女を亡くした。それを喜び、拍手を繰り返す猿の愚行。繰り返し浴びせられる人間の劣悪さに、繰り返し失われる仲間たちの命に、唯一の親友と己の対比で嫌でも感じてしまう劣等感に、誰も知らない呪霊の味。
私の正義は大きく揺らいだ。
足をもつれさせる私の腕を彼女が強く引いていく。金棒を軽々と持ち上げていたことも納得の力強さだ。生前に比べて腕力は強くなったらしい。
しかし、しゃんと伸びた背筋はあの頃と変わりない。
「かなた」
「なに?」
「君はどうしてこんなところにいるんだい」
「閻魔様は? なにも言わなかったの?」
「やばいね、としか言われていないよ」
「あはは、やばい、か」
彼女のいる地獄の入口へ辿り着くほんの少しだけ前に、私はいわゆる閻魔様と呼ばれるような存在と対峙した。
悟よりもずっと大きな身体。装飾的な着物。閻魔様と呼ばれていた存在は跪く私の目の前で鏡を覗いていた。浄玻璃鏡だ。
抵抗し、暴れる死人に混ざって私はただ黙っていた。暴れる死人に獄卒と思われる存在が『罪人は大人しくしろ!』と怒鳴りつけながら喉に刀の刃先を当てていた。
罪人という言葉に私はあまりに抵抗がない。大きく、そして目元に立派な隈をこさえた閻魔様はたっぷり数分間黙った挙句に私を指さして言う。
「あー、やばい子ね」
どうやら私はやばいらしい。
睡眠不足からなのか語彙力の欠けた閻魔様の指示に従って通されたのが先程の地獄の入口だった。
バイト先のバックヤードみたいな場所に連れて行かれた時にはどうなることかと思ったが、人が醜く争い、血や臓物を飛び散らせる畜生道に来て分かった。確かに、私の罪はやばいようだ。老若男女、小さな子どもから老人までが死を繰り返しながら人を蹴落とそうと必死だ。
猿だ。
何度も何度も繰り返し思った言葉を口に出さずに思う。しかし、閻魔様からすればこの猿どもと私は変わらないということなのだろう。
「もうすぐ畜生道を抜けて、餓鬼道に入るよ」
「早いね」
「獄卒を連れてないと、どれだけ歩いても端には辿り着かないんだけどね」
罪人は世界の端に行くことも許可されていないんだよ、と付け加えるかなたの言葉にどきりとした。
『此処、餓鬼道』
思わず咳き込むと隣に立つかなたが引き笑いをした。笑いを堪えようとすると必ずなる、彼女の癖だ。馬鹿は死んでも治らないらしいが、笑い方も死んだところで変わらないようだ。
笑顔につられて口角をあげると、唇が急速に乾燥してひび割れた。小さな鋭い痛みが走ったかと思えば、次にふくらはぎに耐え難い痛みが走る。反射的に左足を見ると、足に骨と皮だけのような人間がしがみついていた。
「なんだ、こいつ!」
言うが早いか人間が先か。
振り払う動きよりも早く、肉の削げ落ちた頬が盛り上がり、骨も幾ばくか失った顎がふくらはぎに噛み付いた。
ぎちり、と弱そうな歯が肉に沈み、筋肉の筋にまで到達しようと顎を動かす。咄嗟に右足を上げ、顔の真正面から蹴り飛ばした。
ぱきぱきという軽い音にゾッとする。足に噛み付いたやつは簡単に飛んでいき、顔はいとも容易く砕けた。
「ごめんね、傑。ソイツ、餓鬼道長くてそんなになっちゃってさ」
「……長い?」
「そう。周り見れば分かるけど、大体はこんなのになる前に地獄行きだよ」
その言葉で大仰に周りを振り向いた。誰もが呻き、ある者は泣き、ある者は怒りながら周囲の物を口に運んでいる。
「……飢えているから、餓鬼道なのかい」
彼女からの返答はなかった。先程噛まれた左足は肉を食いちぎられて凹んでいたものの、出血はない。なんだ、と思えば痛みもない気がした。死んでいるのだ。死んでなお苦しむのが地獄の本懐としてもそれに振り回されるのはもう御免だ。
歩き出した彼女に大人しく着いていく。
左足の肉はもう凹んでいない。
「地獄まで行くんだっけ」
「そうだよ。……傑ってさ」
「なんだい」
「繰り返したくないことってある?」
ゆらりゆらりと歩く度に揺れる肩と髪を目で追いながら、背中越しに問われる。時折横から飛び出してくる飢えた人を軽く避けた。
「そうだね。地獄巡りを繰り返したくはないかな。私の左足は食べ放題メニューじゃないんでね」
「真面目に答えてほしいんだけどな」
文句を垂れながら、彼女の笑い声が添えられる。鈴が転がるような笑い声、とはいかない声だ。しかし、楽しそうに大きな口を開けて破顔する姿が私は好きだった。
彼女の笑い方が変わらなければ、私も彼女が好きなことに変わりない。だからこそ、繰り返したくないことは決まっていた。
彼女の死だ。
「傑、この先にトンネルがあるのね。そのトンネルは通っちゃダメ。その左横に小さな抜け道があるからそこを進むの」
「君は来ないのかい?」
「私にはやらないといけないことがある、から」
語尾を濁らせる彼女は右手を上げ、道を指し示す。指先は急勾配の坂道を指しており、トンネルの一部が見えていた。巨大なトンネルだ。
「間違えないで。トンネルの左横だよ。私の言葉を信じて進んで」
人体の骨や血が広がる道を言葉に押されて進む。スピードを落とせば、その度に後ろからかなたから「ちゃんと進んで」と声が掛けられた。
急勾配の道は険しく、かきもしない汗がじわりと滲むような気がした。懸命に一歩一歩進みながらトンネルを目指す。やけにかなたがトンネルはダメだと言っていたことが気になってしまうが、それでもまずはトンネルを目指すしかない。
そのトンネルは近付けば近付くほど巨大さがよく窺えた。高さが百メートルほどあるように見える。横幅はもっと広い。
トンネルというよりは巨大な穴だ。
その巨大な穴を目指して足を運び、やがてその黒い穴を見上げる位置に来た。左横を見られる位置に移動して見てみる。
が、それが見つからない。
どこまでも広がるように見えていた世界だが、それはペイントのようで実際のそこは壁だった。右手で触れてみる。
冷たく、そして硬い。
叩いてみると低く、響かない音がする。
分厚いコンクリートのようだ。
これ以上進みようがない。信じて進めと言われてもこれでは無理だ。
ならば、と巨大な穴を見上げた。
このトンネルと称された穴を進むしかないだろう。彼女には悪いが、道がないなら仕方がない。それでいいのか思案しながら頭をかくと、チャリチャリと首から掛けたものが鳴った。
忘れていた。【転生許可有り】と書かれたプレートだ。特に意味もなく、なんとなくプレートをひっくり返した。
裏には【かなた】と、彼女の名前が書かれていた。
おかしい。
転生許可を得たのは私ではないのか。
このプレートではまるで、まるで、彼女が本来転生するようではないか。
勢いよく彼女を振り返ろうとした、その時。瞬時に反応出来ず、私の身体は傾いた。小さな白い手がちらりと見える。彼女に背中を押されたのだとすぐに気が付くが、彼女の手はするりと私の手と交わらずに遠ざかる。
落ちていく。
現実感のない浮遊感で死んだ臓器がぶるりと震えた。私は壁だと思われていた穴の横をすり抜け、白い空間へ吸い込まれていった。
あの日と同じ顔の彼女が遠ざかる。
刹那、ぽたりと何かが頬にぶつかった。
冷たい雫だ。
冷たい、彼女の。
「っ! かなた! 私は君を───────」
白に解けていった彼を見送った。
もう二度と本当に会うことは無い。
そうだ。
輪廻転生を許可されていたのは私だった。
でも待っていた。ずっとずっとこの地獄でどんな思いをしようと待っていた。
私は天国行きを伝えられた亡者だった。
すぐに輪廻転生が決まり、生前の善行がそうさせたのだと獄卒は語った。
ならば、最後くらいワガママを言いたい。
閻魔様との謁見が許された私は閻魔様にお願いをした。愛する人の今が知りたい、と。
断られても懸命に毎日毎日それだけを言いに通った。天国にいればもっと楽だった。それでも、追い出されても一日に何度でも地獄まで降りた。
「君、やばいね」
と何百何千何万回の末に閻魔様はそう言ってから、私に鏡を見せてくれた。彼の今、それから短い人生の道を。
地獄を這うように生きる彼を知り、私は転生を拒み続けた。理由がどうであれ、人をたくさん殺した傑の行先が地獄なのは火を見るより明らかだったからだ。
待っていた。
待って、待って。
そして、彼をやっと輪廻の輪から外すことが出来た。あの巨大なトンネルの横道は、ある日偶然出来た抜け道だった。天国へ落ちる、抜け道だった。
地獄というのは死後のことだけを言うのではない。現実が地獄ということもある。だから、もういいのだ。もう彼は充分苦しんだ。
「私も愛してるよ、傑。ばいばい」
← ∵ →