美しい名前






2人目の女だった。

だからアイツの口からその話を聞かされた時、「またか」と思ったことを覚えている。


まだ新緑が眩しい初夏だった。艶やかな葉が雨上がりの雫を弾いて垂らす。そんな朝のこと。3日前から検査入院をしていたかなたは口を固く結んで帰ってきた。なかなか「おかえり」を言わない俺に、アイツはいつも通り「おかえりって言ってよ、甚爾くん」と今までにない弱々しい声で言う。枯れ木が揺れるような声に、流石に手を止めた。

俺はと言えば、検査入院に行くかなたが用意した大量の冷凍食品を電子レンジに突っ込んで回し始めた時だった。ブーンと音を立てる電子レンジに負けそうなかなたの声で振り返る。まるで萎れたように小さく見えるかなたの腕を強く引いていつものソファーに座らせた。
そんなわけはないのに、何故かソファーの軋む音は俺1人分の音に聞こえる。

「私、入院することになったよ」
「いつまでだよ」

俺の言葉でかなたは黙り込んだ。
一体どこで書いたのか。病名と入院先が書かれたメモを机に置き、俺の手を取って見慣れた通帳を俺に握らせた。青色をした地方銀行の通帳はアイツが日頃から使っている昔からの通帳だ。その意図がなんとなく分かってしまうから、アイツの顔を見た。ゾッとするほど穏やかな顔をしているかなたは俺を見ていた。

「甚爾くん」
「……なンだよ」
「この通帳のお金が無くなるまでは私の甚爾くんでいてね。もし口座が空になったら、その時は。また女を探して」

かなたは厄介で面倒な女だった。
俺がナンパをされたら相手の女に引っ掻き、俺がそこら辺の女を抱くと決まって必ずキャットファイトを繰り広げるような女だった。
そんな所が俺には物珍しく、面白くて仕方がないところだった。

「ナンパついてっていいワケ」
「いいよ」
「お前以外とセックスするけど」
「本当は殺したいくらい嫌だけど、いいよ」

いいよ、甚爾くん。でもお金が無くなってからね。とかなたは本日最初の笑みを見せた。
間違いない。コイツは死ぬ。

「またか」と思った。どうにもこの世界は俺から色々なモノを奪いたくて仕方ないらしい。生まれてきてくれてありがとうと俺に言った2人目の女も死んでしまう。

「ふーん」と素っ気なく答えて新聞を広げたが、その俺の手が僅かに震えていたことにアイツは気が付いただろうか。気付かないといいが、でもアイツはいつだって俺のことばかり見ていたから気付いていたかもしれなかった。



そこから半年が経過している。
すっかり新緑は色を変えて散り、すっかり裸の樹木が風に揺れていた。黒色の影ばかりがどこでも埋めき、人の死を今か今かと葬式の参列が湧いて歩き回っている。

たくさんよく分からない管を付けられたかなたの呼吸音は弱々しい。時折ぴくりと指先が跳ねる度に俺は顔を上げるが、かなたの意識が戻ることはない。1週間前に急激に体調を悪化させたかなたはずっと眠っている。きっとこのまま眠るように死んでいくのだろう。

きっと普通の人間だったらこういう場面で泣くのだろうが、不思議と涙は出なかった。1人目の女が死んだ時にも涙が出なかった。ことごとく自分の人間性のなさを感じたが、きっと泣きたかったのは女の方なのだろうと勝手に納得をした。1人目も2人目もアレがしたい、コレがしたいと活発な女だった。そんな女の未来が事切れる瞬間の恐ろしさが頭にこびりつく。

「……かなた」

名前を呼んでみる。反応はない。目が開くこともなければ、弱々しい心電図が元気になることもない。

『甚爾くんが名前呼んでくれたら百人力だからね!!』

「……嘘じゃねぇか」

百人力だというのなら目を覚ましてみろ。
そしてあの2人ぼっちの部屋に帰ろう。

通帳の金はまだ残っていた。そこら辺の女を抱き寄せて甘い言葉を吐けば食事はどうにでも出来た。競馬も競輪も競艇も券も少なめに握り、パチンコは行く日が減った。それでもたまにコンビニのATMで金をおろす時は胸が曇るような気分になり、吐き気がする。
奪われていくばかりだ。
これが俺への罰だというのだろうか。

呪術師を殺した、その報いなのか。
それとも生まれてきてしまったこと自体が呪いなのか。
かなたは俺と出会わなければまだ未来はあったのだろうか。

「……ふっ、はは」

馬鹿馬鹿しくて天を仰ぐ。真っ白な天井がそこにはあるだけだ。何も無い。何も無い。
頭の中が病院の天井のようになっていく中で、何のタイミングもなく、心電図は未来が死んだことを知らせる音を立てた。

ピーと鳴り続ける心電図を無視して、かなたを見る。こうして見ると疲れて眠っているようにしか見えないが、このまま急速に温度を失い、そして腐っていく。こんな風になるならもっと前からコイツの名前をもっと呼んでやれば良かったのかもしれない。百人力だと言うのならもっと千人力でも万人力にでもしてやれば良かったのかもしれない。

「……かなた」

遠くで人の息遣いや動く音がする。窓の外では雲が流れている。

「かなた」

周りは生きている。

「かなた」

コイツだけが息をしていない。

「……かなた」

もう冷たくなり始めたまだ柔らかい腹に顔を埋めた。何の音もしない。でも残された金とお前の記憶だけは確かに鮮やかに俺にある。

かなた。
お前は2人目だったけど、名前が綺麗だと思ったのはお前が初めてだった。




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