君と私は、はらぺこ




「ストーカーだと思うんだよね」

私のその言葉で目の前の同僚は瞬きを3回繰り返した。すかさず、「ほお?」と促すような返答がくる。真剣に聞いてもらえていないなぁ、と思いながらほかほかの五目中華丼を口に運んだ。

職場の休憩時間。貴重な昼休みは急遽変更された稟議書の再提出によって短縮された私は、休憩と同時に走り出していた。時刻は12時28分。出来ることなら12時前にオフィスを出たかった。滲む汗と首から下げた社員証を手で抑えて目的地へヒールを鳴らして走る。なぜなら、月に1度やってくるフードトラックの日が今日なのだ。砂漠のようなオフィス街に料理の匂いを漂わせながら活気づくフードトラックは私の数少ない楽しみである。

しかもInstagramで事前調査済、今回のフードトラックは中華だ。時間がないとコンビニ飯になりがちな私の枯れた心に降り注ぐ恵みの雨が、そう、フードトラックである。

前方のフードトラックから伸びた列は奇跡的に長蛇の列ではない。幸運だ。フードトラックはタイミングが悪いと30人ほどが並んでいることもある。息を切らせながらスライディングする勢いで最後尾に足を踏み入れ、た。はずだった。直前で目の前に現れた大きな影に急ブレーキを踏む。勢い余って進んだ3歩先には見慣れた男がいた。


「はーん、それがストーカーだと」
「マジなんだって!今日のフードトラックだけじゃないんだよ!休日カフェ行っても食堂行ってもイタリアン食べに行っても蕎麦食べに行っても居酒屋行ってもいるんだよ!?」
「ストーカーもお前も食欲どうなってんの?」

そういう話じゃない!と頭を抱える私を他所に同僚である遥香はサンドイッチを1つ口に含んだ状態でもごもごと言葉を続ける。

「最重要事項」
「はい。遥香さんどうぞ」
「そのストーカーイケメン?」

思わずむせる。餡の絡んだ米は不幸にも私の口から飛び出して机を汚した。勿体ない。
想像斜め右でそのまま天へと昇っていきそうなお気楽な質問だ。急いでポケットティッシュで机を拭く。

「どんなイケメンでもストーカーは嫌じゃない?」
「おや、イケメンってこと?」

言葉に詰まらせながらプルプルなキクラゲを口に運んだ。目を閉じて思い出せば、真っ先に目につくのは大きな体躯だ。身長も頭1つ分ちょっと郡を抜いており、身体の厚みも完全にアスリートだ。完全にサラリーマンではない。そして風に揺れるハーフアップの長い黒髪と、切れ長のキリッとした瞳。海外の人のようでは無いにしても、日本人の中でも目鼻立ちがハッキリしているように見えた。

「……イケメン、だと思う」
「当たりじゃん!声掛けてみれば?」
「こっわ!出来るかい、そんなこと!」

と思うのなら、なぜ私は連絡先を紙に書いたんだろうなぁ……と失笑しながら紙を握り締めた。現金なのだ。
仕方ない、普段の癒しと潤いといえば後輩の女の子が飼っている子猫の画像を送ってもらうことと、食事くらいなのだから。婚活中とはいかないまでも、それなりに出会いが欲しいというのもまた本音なのだ。


今日は定時から30分近く過ぎたところで、やっと上司の「帰っていいよ」という帰宅許可が下りた。定時の5分前にはまとめておいた荷物を掴んで足早にオフィスを出る。エレベーターの待ち時間の間にスマホのアプリで出退勤の報告だけ済ませればあとは私の時間だ。

毎月20日は最高の日だ。
給料日であり、フードトラックが来る日であり、私が大好きな餃子屋さんがスペシャル肉汁餃子を出す日でもある。この日は必ず白いシャツを着ない。これが私の流儀。

急ぎ足で餃子屋へ進む。秋から急速に冬へと変化していくこの頃、人は俯いて歩きがちになる。服の色は地味になり、好まれる服のカタチも地味になる。そんなつまらないモノクロの人波が店先の街頭に照らされてキラキラと光った。最高の光だ。餃子屋の電光掲示板の光である。

営業中と赤い光が電光掲示板に流れていることを確認して、引き戸を滑らせた。
いらっしゃいませ、と大学生であろうバイトの男の子の声が景気よく響く。
これこれ、と促されるままカウンターに上機嫌で座るまでは、良かった。

案内された席の真隣では空調の風で長い髪の毛先が揺れていた。

いる。
いるいるいる!ストーカーいるじゃん!

どうやら私より少し早く来店していたのか、私のところにはまだないお冷のコップが汗をかいて置かれていた。ストーカーはこちらを振り向かない。しかし、一瞬だけ目線を寄越した。

行った店に先にいることが4回。
私がいる店に入ってくることが7回。
同時に入店するのはレアで2回。

今回はストーカーが先にいるパターンの5回目、通算14回目の遭遇になる。
ストーキング技術が高すぎだろ。

私は生唾をごくりと飲み込んでからカバンをカゴの中に入れ、そっとカウンターの席に座った。距離は1mくらいだろうか。今まで話をしたことはない。なぜならストーカーとストーカーされている側だからだ。

吹き出る汗をタオルで拭い、横目で彼を見る。彼はスマホをいじりながら、時折コップの水を口に運んでいた。表情は至ってクールであり、動揺している様子は見られない。
昼間、同僚に促されて書いた連絡先を書いた紙は財布の中に収められている。渡すべきか、渡さないべきか。

悩んでいる間に店員が注文を聞きに来る。店員の男の子はにこやかにストーカーの人に声を掛けた。彼はメニュー表を一瞥もせずにハッキリと注文をした。

「ご注文はお決まりですか」
「スペシャル肉汁餃子定食特盛でお願いします」

その言葉につい思い切り振り返ってしまった。スペシャル肉汁餃子定食は毎月20日の夜10食限定のロイヤル定食である。私もその定食を狙って靴擦れをしようと駆け足でこの店舗に足を運ぶ。
その定食はボリュームが大食い選手権会場のようになることが常連の中でも有名だ。特盛はあるものの、頼んでいる人間なんて見たことがない。大抵は並か、小を選ぶだろう。

やはりただのストーカーで食の道ではド素人!

謎の優越感に浸りながら、私の横にやって来た店員に注文をする。

「ご注文はお決まりですか?」
「スペシャル肉汁餃子定食大盛りでお願いします」

そう言った瞬間、私の右隣で風が起きた。肌で分かる。彼が私の方に思い切り振り向いたのだ。思わず私も彼の方を振り向いてしまい、視線がこの日初めてかち合った。彼の驚いた表情にこちらも驚く。何に驚いているのかは分からない。初めて私に気が付いたのか、それともスペシャル肉汁餃子が25個ついてきて600gはあるだろうご飯がついてくる大盛りの定食を女が頼んだからだろうか。
……後者かもしれない。

悩みながら曖昧な笑みで返すと、バツが悪そうな顔で会釈が返ってくる。無性に喉が乾いてコップを手にして1口飲み、コップをテーブルに置く音が2つ。振り向くと彼が私と全く同じ姿勢で水を飲み、驚いた顔で私を見つめていた。そして、きっと私も同じ顔をしていた。

「あの」

高音と低音が重なる。変な汗と謎の羞恥に顔が熱くなりつつ、手で相手に会話を譲った。同じ動作を彼もしようとしたが終わりが見えそうにないことを悟ったのか、こほんと軽く咳をしてから話を切り出した。

「君は、私のストーカーかい?」
「……は?」



「つまり、ストーカーではなかったけど奇跡的なまでに食の好みが似ている、と」

私が首を縦に振ると、遥香は耐えきれないとばかりに噴き出して腹を抱えて笑い出した。ヒーヒーと苦しそうな声に、社食のテーブルについている人はちらりとこちらを見ている。意に介さない遥香は豪快に笑い続けるが、恥ずかしいやら何やらで混乱し続けている私はよく冷えた水を喉に流し込んだ。

結局昨日は連絡先を渡すことはなく、互いに注文したスペシャル肉汁餃子定食をぺろりと平らげた。私の食べっぷりと彼の食べっぷりからストーカーではなく、ガチの食いしん坊なのだと互いに理解してストーカー疑惑は一瞬で消え去って行ったのだ。更に言うならお会計の後、「じゃあまた」という挨拶すら交わしてしまった。どうせまた会うだろうという諦めである。

「もう付き合っちゃえば?」
「展開早すぎでしょ」
「いやもうそこまで来たらさ」

私の目の前でゆらりゆらりと揺らしていた箸の先を目で追うと、ぶっすりと本日のお弁当であるひじき入りの豆腐ハンバーグを突き刺した。1口サイズのハンバーグを突き刺した箸先が再び私を指さす。

「運命じゃない?」

得意げな顔の同僚から箸先のハンバーグを奪い取ってから、かもねと返事をしたがハンバーグを奪われて叫んだ同僚の耳には届いていないのだろう。すかさず私の唐揚げを狙う同僚とバトルを繰り広げた。



「あ」

再び高音と低音が重なったのは休日の昼間だった。私が大好きな居酒屋のランチだ。酸味強めのトマトソースが美味しい豚肉のコトレッタが美味しいランチプレートを目当てに足を運んだ店舗の中。学生時代から好きなアーティストの曲がアレンジされて流れており、気分よく目を閉じたところで聞き慣れた声がした。
通路を挟んだ向かいのボックス席にハーフアップの黒髪。彼だ。すぐに私の視線に気付いたようで声が重なった。

「……コトレッタ?」
「その通りです」

彼の想像通りの注文に私が頷く。流石に面白くなってきたのか、彼は口元をおさえて小さく笑っている。笑いたくもなりますわね、と私もつられて笑った。ひとしきり笑って彼を見ると、余程面白かったのか左目にうっすらと涙がにじんでいる。少し赤くなった顔でキリッと上がっていた眉毛は下がり、困ったような顔で笑う人だった。思わず胸がどきりとする。かっこいいくせに笑った顔が可愛いタイプの男だ。

それからというもの、たまに行くおにぎり屋さんで。某チェーン店のイタリアンで。唐突に食べたくなったファーストフード店で。ぼんじりが美味しい焼き鳥屋さんで。
行く先々で会う彼の名前は夏油傑という名前らしい。

ストーカー疑惑が解決してから4回目の遭遇で、私たちはついに相席を店から言われて向かい合うに至った。それ以降、夏油さんとは待ち合わせをしていないにも関わらず待ち合わせをしているかのように一緒に食事をとるようになる。

今日もそれは同じで、切ないお腹の音で入ったとんかつ屋さんに入ると彼が掘りごたつの席で手を上げた。私も手を上げ返して、向かい合うように座る。流石にトップスの色は違っていても、デニムにサンダルスタイルというところまで似通っている私たちはどう見ても他人同士には見えないことだろう。
私が着く前からお冷が2つテーブルの上には置かれていた。

「連絡先交換したけど、どうせ店に行ったらいるから連絡しないね」
「誤差2、3分といったところですかね」

慣れた手つきでメニュー表を開いて、そっとメニューを指さす。私の細い指と夏油さんの大きくて太い指は同じものを指している。分かりきっていることだった。

「すみません、上ヒレカツ定食大盛りと特盛1つずつお願いします」

夏油さんのその声にカウンターから「はいよー」という覇気が若干欠けた声が返ってきた。私はこの感じが好き。

「私、この店の少し覇気が足りない感じが好きなんだよね」

思わず見つめてしまった私の顔を見て、夏油さんが首を傾げる。

「あ、いえ。……私も好きです」

特別な意味もないのに、妙に喉が渇く言葉だ。

店内の人は疎らで、人の声と同じくらいのボリュームでパチパチと油のはぜる音がする。日に焼けたメニュー表が夏油さんの後ろに見える壁には掛けられており、大将の奥さんであろう女性がお盆を持って歩き回っていた。夏油さんは穏やかな顔で時折そっと目を閉じて音を聞いている。私も合わせて目を閉じた。優しくて美味しい空間だ。



「うそ、まだ付き合ってないの!?」
「一緒にご飯食べてるだけだし……」

夏油さんの名前を知ってから3ヶ月が経過していた。秋だった季節は冬へと完全に移り変わり、紅葉していた木々は枯葉対策で何本も切り取られている姿が出勤の途中で見られるようになっている。年中食欲の季節という私と夏油さんは何も変わることはない。精々冷たいものが減って、代わりにお鍋などを食べたくらいだろうか。

何の変化もないために話題として特に上がらなくなった夏油さんを、彼氏になったから話さなくなったのだと勘違いした遥香の言葉が先程のそれである。

「夏油さんだっけ?嫌なの?」
「全く。めっちゃ居心地いいし。でも一緒にご飯食べてるだけなんだって」
「キスでもかませば?」
「痴女の発想じゃないの、それ」

口を尖らせる同僚を見て思わず溜息がこぼれた。別に、私だって夏油さんとそういう仲になりたくないわけではない。食事だけでなく一緒に出掛けても楽しいだろう。たまに揺れるあの黒髪に触れてみたい気持ちもある。

でも、もしそれで一緒にご飯を食べられなくなったらどうなのだろうか。
店に行っても彼はいなくて、いつもならどっちが先でも2分かそこらの差で来る私たちが会うことはない。いつか来るんじゃないかと、2人分のお冷を見つめる寂しさに私が耐えられるだろうか。

無理、だなぁ。

連絡したことのない彼に連絡する勇気もない。

最下列だけでなく、半分がホットに変わった自販機のボタンを押す。夏油さんが以前飲んでいたコーヒーのブラックを勢いで飲み干して仕事へ戻った。



今日のお昼は蕎麦だと決めていた。少し前に大将の奥さんが産気づいて休みになっていた田舎蕎麦のお店が再開したのだ。今日は一段と寒くて風が強いから温かい蕎麦も良いかもしれないし、いつも通りのざる蕎麦も良いだろう。

厚めのカーディガンの上にコートを羽織ってお店へと足取り軽くブーツで進むと、もう少しでお店という場所で男2人組に絡まれた。

「奢るからさ、ほら、一緒にご飯食べよ」
「いや、結構です」
「そう言わないでさ、そこのパスタ美味しいんだよ」

男2人組に左右を挟まれて半ば強引にイタリアンの窓際の席へと誘導されてしまったのだ。私がハッキリと断ろうと何処吹く風だ。パスタも悪くは無いが、すっかり蕎麦の口である。その上、誘導された店のパスタがそこまでではないこともよく知っていた。
ナンパというより強引なキャッチのイタリアンバージョンなのだろうか、くだらない。

私の気分など全てお構い無しの男たちはオススメだというメニューを勝手に注文し、我が物顔で私のプライベートばかりを無理やり暴こうとしてくることが気持ち悪くて仕方ない。望んでもないパスタが届いて、頼んでもいないのに昼間からワインを勧められた瞬間である。スマホが小さく震えた。

『今どこ?』

夏油さんからだった。

夏油さんからそんな連絡は来たことがない。
そもそも、連絡自体初めてだった。
彼は待っているのだ、私を。

男2人に注意しながら、一言だけ彼に返した。同時に位置情報を送る。既読はすぐについた。なんなら未読の文字は一瞬だって表示されなかった。それからたった数秒の後、店の入口に付けられた鐘が飛んでいくんじゃないかと思われるような大きな音を立てて揺れる。

「かなた!」
「夏油さん!」

すぐに、誰だよと突っかかる男2人組だったが、夏油さんの鋭い眼光に威嚇されると子犬のように縮こまって大人しくなった。

「私の彼女がお世話になったね。これは取っておくといいよ」

テーブルが叩き割れるんじゃないかと思われるような轟音を立てて、夏油さんが1万円札をテーブルに置く。あまりの轟音にカウンターの奥から店員数名がこちらを見に来たが、それよりも先に夏油さんの大きな手に引かれて店を出た。店を出て数m進むと、コンビニ1店舗程度の公園があり、そこまで彼は無言だった。私も無言だったが、彼と同じ理由では恐らくなかった。
サラリと言われた「私の彼女」という言葉に面食らっていた。

人波の先にある公園に着くと、控えめに夏油さんの手は離れていく。

「すまないね、無理に引っ張ってしまって」

手を離して振り向いた夏油さんはいつもの夏油さんだった。困り眉で口をおさえて笑う、穏やかな人。

「君が店になかなか来なかったから、何かあったのかと思って心配したんだ」

なかなか来ないと言ってもものの数分だろう。私が来ない可能性もあっただろう。
それでも、もし彼が私の想像した景色にいたら。夏油さんが来なくて、広いテーブルに2つのお冷が並んでいるのに自分しか座らないテーブル。それは寂しい。
とても、とても寂しい。

「……夏油さんと、お蕎麦、食べたくて。とても美味しいお蕎麦だから夏油さんと、美味しいねって食べたかった」

思考より先に言葉が出た。夏油さんがじっと私を見つめている。訳が分からないくらい、じわりと目頭が焼けるように熱いのは何なのだろう。胸が苦しいのは何なのだろう。
目の前の彼に抱きついて、そっと唇を合わせて手を握りたい。

好きだからだ。

明確に自分の中の気持ちが形作られた瞬間、ぽたりと涙が溢れた。
息が止まるくらい誰かを好きだと思ったことは初めてだ。
美味しいご飯を食べたら真っ先に報告したくなるようなことは初めてだ。

「夏油、さん!私、」

その時、私の言葉を飲み込むように夏油さんの唇が降ってきた。
一度重なって、二度重なって、三度目と四度目は感触を確かめるように唇を食む。
短い夏油さんの黒々としたまつげがふるりと震えるところが見えて目を閉じると、またもう1粒涙が落ちる。

人の声も車の音をも全部が遠ざかって、2人分の呼吸音だけが聞こえた。

「……すまない、キスしたくなった」

唇が離れて、夏油さんの大きな手が私の零した涙を掬う。目頭の熱はすっかり顔全体に広がり、もはやどこが熱いのかハッキリしない。

「……ううん。私も、キスしたいと思ってた」

そう言って目を閉じた私に、再度降ってくる唇に唇を重ねた。暫くそうして、そしてランチタイムが終わることに気付いて2人で蕎麦屋まで走ったのだった。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -