失す本懐




衝撃を受けて身体がよろめいた体験は初めてだった。何を言われているのか理解出来ず、視界がぐらぐらと揺れた。目の前で眉間に皺を寄せて立っている五条悟を真っ直ぐ見ることが出来ない。

「かなたが呪詛師になった」

それはつまり、彼女が非術師を殺したということで。血の気が引いていき、指先が痛いくらいに冷えていくのが分かった。殺した人数は8人。その中には子どももいたそうだ。

既に彼女は捕まっており、処刑を待つ身なのだと悟は静かに告げた。

穏やかな日だった。
小春日和と称される穏やかな10月末日のことである。ぽかぽかとした暖かい陽気が校舎に差し込み、古い校舎はその亀裂を光でぼやかしていた。歩けばぎしりと鳴る、確かに歪んだ廊下を光で誤魔化している。

歪んだ白む廊下を抜けて、普段学生は足を踏み入れない建物に入る。そこは補助監督でも新人は足を踏み入れない場所で、疲れた顔の呪術師が時折出入りしていた。建物自体は大きくないようだが、中には地下に進む階段があるのだと夜蛾先生から聞いた。入口には注連縄が下げられている。

「ホントにお前がやんの?」
「ああ。聞きたいことがある」
「……ほどほどにしとけよ」

案内は悟がしてくれた。どうやら天元様の結界の影響で、場所はしばしば変えられるそうだ。私は悟を振り返ることなく進んだ。

悟との会話は久しぶりだった。夏の護衛任務以来、悟は術式の研究に没頭しており、暇を見つけてはくだらない遊びに興じて怒られることは無くなった。任務もすっかり2人別々だ。すると、教室に顔を出すことが減り。自然とかなたと話す機会も減っていった。

木で作られている建物部分は地上部分だけだった。地下に通じる道は石造りで、地下からの冷たい風が足に絡みつく。思わず足を止めた。考えを巡らせる。
果たしてこの先にいる彼女は本当に私が知っている彼女なのだろうか。

彼女は、私と同じ一般の出の呪術師だった。
嘘が下手で、正直な性格。姿勢が綺麗で箸やペンを持つ仕草が綺麗な子だった。意見をハッキリ言うため、悟とは頻繁に意見をぶつけてはいたものの、ちゃんと謝って仲直りしようと握手を求める。さっぱりとした良い奴、というのが悟の彼女に対する認識だったようだ。私も大体似たようなところだ。しかし、動物や子供が傷ついたり、懸命な様子を見るとどうしても涙が溢れる涙もろい一面をこっそり持ち合わせていることを私は知っている。

呪術師としては準一級であり、確かに悟や私に見劣りはするものの将来有望株であったに違いない。そんな彼女の罪を、死刑という断罪を、誰が予想しただろう。

木の階段は軋み、泣き声のように石造りの空間に響いた。ぎしり、ぎしり、ゆっくり階段を下る。もし、言われのない疑いであったなら悟にも伝えてどうにか出来ないものか。
最後の段を下りると、壁には随所に札が貼られており、厳重さが見て取れる。左右に広がる廊下を左に進む。

私が許可されたのは面会ではない。
尋問≠ナある。場合によっては彼女を傷つけることも厭わない、ということだ。
やりたくない。しかし、そうでなければ処刑前に彼女に会うことは許可されないと奥歯を噛み締めた夜蛾先生が呟いた。絞り出すような許可は本来は許されないものだったのだろう。夜蛾先生は私たちに甘い。

左奥から1つ手前の部屋には札が貼られた錠前が下りている。ここだ。私は悟から受け取ったバングル型の呪具を右腕につけ、錠前を外した。ギィィ、といかにも古い扉の軋む音が響く。中からは手足を拘束され、口枷をはめられたかなたが床に固定されていた。思わず彼女の名前を小さく呟く。

彼女は緩慢な動作で顔を上げ、私と目線を合わせた。笑っているようにも見える。私は扉をしっかり閉めてから、口枷を外した。近くに椅子があったが、それには座らなかった。

「かなた」
「……傑が来るのは予想外だね。悟が来るものだと思ってた」
「そう思うかい」
「うん。悟なら私のこと殺せそうでしょ」

そっちか、と私は少し安心するのと同時に、空間の酸素はひどく薄くなった。悟が彼女に思いを寄せていることは私と悟自身しか知らない。そして、私自身の気持ちは私しか知らない。彼女を好きになるのに、この1年半は充分過ぎたのだ。

「何しに来たの」
「……本当に、君がやったのかい」
「それを知ってどうするの」
「別に犯人がいるなら私と悟でどうにかするさ」
「やめてよ。私が殺したんだよ」

やめてよ、は私の台詞だった。
違うと嘘でも言って欲しかった。

そんな私の心情を肌で感じたのか、微笑んでいた彼女は申し訳なさそうな顔になった。困り眉になった彼女の眉間を人差し指で突く。痛いと呟いた彼女をこれ以上傷つけたくはなかった。

「私は尋問しに来たんだ」
「へぇー……覚悟したの?」
「何のだい」
「私の話を聞く覚悟だよ。……傑の言う弱者生存≠フ正義が揺らぐかもしれないよ。私の思想に犯される覚悟はあるの?」


彼女はゆっくり、噛み締めるようにそう言った。脳裏に浮かぶのは天内理子の遺体を見て笑顔で手を叩く醜い非術師の姿。利己的で傷つけることしかせず、自分を犠牲にしてこの世界を回そうとする者を平然と蔑ろにするあの醜い非術師たち。その姿に彼女も気が付いてしまったのか。

「……凄い顔してるよ」

彼女を拘束する札の貼られた縄が揺れた。何かと思えば彼女が右腕を動かそうとしたからだ。ぐんと温度も酸素も減って息苦しい。目頭が熱くて仕方ない。

「話、聞いてくれないんだ」
「……尋問は人生相談じゃないよ」
「覚悟がないってこと?」
「……話せばいいさ」

覚悟はない。
自分の正義のカタチが歪んでいく予感がすることは事実だ。ブレるな。ブレるな。そう思っても、眼前で縄に縛られ、やつれた彼女の姿を見たら《弱者とはどちらなのだ》と思わざるを得ない。

「……虐待だった。呪霊が見える子どもがいて、その子を皆で虐待していた。集合住宅に住んでいる子どもで、近所の子どもが暴力を振るうだけじゃない。周囲の大人も子どもと同じく石を投げ、家族はもっと酷い暴力を振るっていた。呪霊が見える、それだけで。気持ち悪いって、それだけで」

喉がひりつく。あの護衛任務以来、飲み込んできた人の負の感情が腹の底で蠢いている。

「そして、その子どもは私の目の前で死んだよ。父親に頭を掴まれて、床に繰り返し叩きつけられた。……私は止めたよ。止めた。でも父親はやめなかった」

その命の消えていく瞳を見たら、私はもうどうしようもなかった。
と彼女は吐息と同じくらいの大きさで呟いた。その惨状を誰かに知って欲しくて堪らなかったのだろう。そして、子どもの懸命な姿を見ると必ず涙する彼女の瞳からは滝のように涙が溢れ出した。

壁一面に貼られた札たちが彼女の罪の重さを語っていた。非術師を殺すことは罪だ。しかし、本当にそれは罪なのだろうか。
本当に罪があるのは自分が理解出来ないという理由だけで子どもを殴り殺した非術師共なのではないだろうか。なぜ、そんな非術師のために彼女を失わなければならないのだろう。

彼女を縛る縄に手を伸ばす。

今、ここで彼女を逃がせば私も罰せられるに違いない。それでも身体が勝手に縄を引きちぎろうと縄を掴む。しかし、私のすぐ横で彼女が、やめてとハッキリ言った。手が止まる。私がいま感じるこの怒りと遣る瀬無さの何倍のものを彼女は感じたのか分からない。しかし、それでも彼女は私にやめろと言った。彼女の声以外何の音もしておらず、痛いほどの静寂が耳をつんざく。

「私はこの世界に希望がない。処刑は受け入れたい」
「私が嫌だ」
「傑も呪詛師になっちゃうよ」
「それでもいい!あの猿どものためになぜ君が死なないといけないんだ!!」

溢れ出した。あの日から抱えていた怒りを口にしたことは初めてだった。

飲み込んできた呪霊たちが腹の底で騒いでいるようだ。もう、いいじゃないか。

困惑する表情の彼女をそのままに、私は強引にその縄を引きちぎった。呪力強化や術式への対抗策として貼られていた札は、単なる力任せの行為には弱かったようだ。
すぐに鳴り出すアラートを背に、私たちの本当の人生が始まった。
























と、なれたらどれだけ良かっただろう。
私は彼女の口から非術師を殺害した理由をしっかり確認してから何も言わずに建物を後にした。さよならも告げなかった。告げてしまえば、私の中の何かが歪み尽くす気がしたのだ。私が建物を出ると、外で待機していた悟と入れ違う。悟はいつものようにポケットに手を突っ込んで猫背の状態で建物に入っていった。きっと彼女の処刑をするのだろう。きっと、悟ならそれが出来るのだろう。

震える唇に沿って涙が流れ、ぽたりぽたりと地面に黒が広がった。


アラートが鳴ったのはその直後だった。
何事かと思えば、夜蛾先生が走り出して私の横を通り過ぎる。

悟が彼女と共に姿を消したことを夜蛾先生の口から聞いたとき、私は。


私は。












私には出来ないことをやるのが、
いつだって五条悟なのだ。





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