君と私の不治の病



「体調はどうですか」

 白い空間、見慣れた白衣の男性がパソコンのモニターと向き合いながらいつもの質問をする。決まって吹く風は今、随分凪いでいて、白い箱の中でもよく晴れた青い空が見えるかのようだった。必要以上に優しいわけでもない空間に落ち着きを感じる。

「穏やかなんです。最近は一人じゃなければ眠れるようにもなって、誰も私を責めなくなったんです」

 カタカタと素早いタイピング音が響いても、私は何も嫌な気持ちにはならなかった。いつもと同じはずなのに、なんだか世界は妙に優しくて温かい。無性に傑に会いたい。傑は傑でいつもの椅子に座って診察を待っているだろう。逸る気持ちを落ち着かせるかのように、先生のタイピング音が消えた。
 私が顔を上げると、先生のメガネのレンズ越しに目が合う。何年も通院しているのに、先生の目を見るのは初めてかもしれない。

「元から誰もあなたを責めてはいません。あなた自身が許すなら、それでいいんですよ」
「……はい」

 私の心を守るように立ち塞がっていた扉は、もしかしたらただ視野を狭めていただけなのかもしれない。いや、もしそうだったとしてもあの頃の私にはそれが必要だったのだ。あの頃の私だって、精一杯生きていた。
 これが許すということなのだろうか。


「食欲は」
「お通じは」
「気分の落ち込みは」
「薬を減らしてみましょうか」



 私と入れ違いで傑が診察室に消えていく。
 梅雨明けの空が突き抜けるように窓から入ってきて、床が反射で青くなる。真っ青な空に小さな雲が二つ浮かんでいた。ふわりふわりと仲良く泳ぎ続ける姿が窓枠で縁取られて、
 綺麗な絵画のようにも見える。

「なに見てるんだい」
「雲だよ」
「かなたは空見るの好きだね」

 八十番と呼ばれた私の隣にいつもの彼が戻ってきて、漫画雑誌を読み始める。文字を追えるようになったのだと、先週の頭に言っていた。かくいう私も量が少なければ読めるようになったため、傑が読んだ漫画を貸してもらって読むようになった。
 一緒に過ごす時には食事とセックスしかしていなかった私たちは気付けば共有することが増えて、出来ることが増えて、話すことが増えていった。私の味覚と傑の味覚、傑の考え方と私の考え方は気付けば歩み寄って重なって、見えることも増えている。
 喧嘩も一度だけした。くだらない喧嘩で、好きじゃない調味料を使った使わなかったなんて内容。最終的に無視を決め込んだ私に傑が根負けして謝り、また私もそれに謝った。
 本当に私たちの日常が普通≠ノ切り替わっていくのが、光の当たった水のようにきらきらと輝いている。

「薬減ったよ」
「私も」

 傑の鼻と私の鼻が触れ合って笑う。
 あの日、私たちはあの場所に帰って良かった。三人で食卓を囲んだ後、お母さんはタッパーに余ったおかずを詰め込んで私たちに持たせながら

「たくさん頑張らせてごめんね」

 と言って泣いていて、その発想はなかったとお母さんの背中を摩った。帰りには空は薄暗い夕方になっていて、梅雨らしい芯まで濡れるような雨がしとしとと降り始めていた。
 傘を持たない私たちにお母さんは大きくて丈夫な傘を一つだけ貸してくれた。もう一つ傘があるのか聞いた私に、お母さんが傘は雨を凌ぐだけではないのだと言う。
 なるほど。私たちは大きな一つの傘で相合傘をした。相合傘から覗く世界も充分美しかった。
 帰りのバスの緑色は思っていたより汚くなくて、戻った都会の人混みは今までより煩くなかった。



「私は天才かもしれない」
「突然だなぁ、なに?」
「採用だって、来月から働くよ」

 お母さんと会ってから二ヶ月、傑は髪を切ってスーツを着ている。
 突然髪を切ってきた時には驚いたが、しかしこれからの二人の生活を考えてのことという理由に、私は否定など出来なかった。
 数年ぶりの再就職は簡単ではないにしても、懸命に履歴書を書く傑の背中が頼もしくてとっても嬉しかった。

 それから私たちは本格的に同棲を始めて、傑の家は解約をした。二人の収入と支出を考えて助成金などにも色々申請をし、そして、傑が正社員として働くことが決まった。私は薬が減ったとはいえ労務不能状態なので家事全般を行うという役割分担をすることになる。入籍するしないは分からないにしても、それでも二人で生きていくことだけは確信していた。百均で買った軽いプラスチックの写真立てに、お母さんと傑と私の三人で撮った写真を入れて飾る。
 スーツが皺にならないようにハンガーに掛けると、背後から彼に抱き締められた。少しだけ長めの前髪が首筋に当たってくすぐったい。私が笑えば傑も笑って、とっととスラックスとワイシャツを脱いだ傑はパンツ一枚だけで私を持ち上げてベッドに放り投げた。午前中に干したお陰で温かくて弾力の増した布団の中に二人で潜り込む。少し離れたところでは洗濯機がそろそろ終わりそうな音がして、目頭と鼻が痛いくらいに温かい一日。

「かなた」
「うん」
「セックスしよう」
「あはは、いいよ」
「……結婚、しよう」
「……うん、」

 いいよと言いたかったのに、それは涙に飲まれて二人で選んだシーツに溶けた。

 馬鹿みたいに私が何度も何度も頷くものだから傑は困ったような顔で笑って、何度も私の涙を掬う。掬って舐めて飲み込んで、何度も口付けて、左手の薬指を噛んだ。指輪なんていつだっていいよ。
 手に触れて繋いで絡んでお互いの身体の輪郭を走って、ずっとずっと内側に溶けていく。


 何度も何度も互いに触れていたら、気づいたら夕方になっていた。
 流石の空腹に二人で脱力し、どっちからかも分からない腹の音が天井へと吸い込まれる。何時かも分からないので、なんの気もなしにテレビをつけた。
 流れるのはどの局もニュースで、今はどうやら十八時台だと知る。

『神奈川県××市の民家で昨年十月、三十五歳女性が自宅浴槽内で殺害されたところを発見された事件で新たなことが分かりました。被害女性の長男が今年六月に自首しに神奈川県警を訪れたことが───────
 自供によると、虐待されている弟を守りたかったとのことで───────』


 その事件の報道には覚えがあった。

 あの母親、私が殺したんだ

 傑と出会って間もない頃、傑が殺人を私に仄めかした事件だ。私が左隣を見ると、傑の目線は熱心にテレビの報道を追っている。私の視線に気付いたのだろう、彼は一瞬目を伏せた後語り始めた。


 その兄弟は当時、傑が住んでいる家の近所に住んでいた。長男は頭が良くて、祖父母に可愛がられていたが、不器用な次男は虐待の集中砲火を受けていたらしい。それを知った傑は通報しようとしたが、それは長男によって止められた。俺が必ず何とかする、そう言ったが、その目は怒りで激しく揺らめいていた。その目に覚えのあった傑は、もし何かあれば夏油傑の名前を出していい、と、そう長男に告げたのだという。報道を見た時、傑はやはりこうなったか、と思ったのと同時に、何かあれば自分がその罪を背負おうと決めた。

「……なんで傑が罪を負うの」
「何でだろうね、ああいう目には弱いのかな。凄く、分かるから」
「他にもやり方はあったと思うよ」
「今ならそう思うさ。でも当時はまだ君とは知り合ったばかりだったし、それに」
「それに?」


「あの子が殺さなかったら私が本当に殺していたさ」


 そう言って傑が笑うから、どれだけ世界が美しかろうとやっぱり誰もが笑える世界などは存在しないのだろう。






 誰もが笑える世界。

 




 それはやっぱり吐瀉物みたいな味のする言葉で、私は傑の肩に寄りかかって目を閉じた。

 室内いっぱいに、バケモノの呼吸音がする。




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