告白
あまりの静けさに地球さえ呼吸を止めたのかと思った。
傑は未だにお母さんに覆い被さっている。しかし私の言葉が届いたのか、しっかりと私を見ている。
その目。
目。
あの日、絶対零度の怒りを持って確かに振りかざされた殺意。
傑には意味が分からないかもしれない。
しかし、あの時と同じ髪型に同じ顔、同じ目の傑を見て私は言わずにはいられなかった。
「私を殺したのは傑なんでしょ」
傑は動かない。
命が巡る前の記憶だなんて、くだらないと思いながらそれでも彼の目に映るバケモノたちの中に私の死体がある。
頭痛を堪えて、ゆっくり私が立ち上がる。
畳を擦るように歩き傑の肩に触れる。
するとそれがスイッチだったかのように、傑はお母さんから手を離した。
その手は震えている。
「すぐ、」
る≠言い終える前に傑の大きな背中から叫び声があがった。鼓膜も床も天井も窓もビリビリと揺れるような激しい叫声。傑は叫びながら髪ゴムが引きちぎれるような力で髪をぐしゃぐしゃと掻き回し始めた。耐えきれない髪ゴムはすぐにぱちんと弾ける。叫びは天に響くようにあがり、また次の瞬間には低い地響きみたいな呻き声に変わる。声は混乱に満ちていて、呼吸は苦しみの輪郭を持っている。
お母さんは混乱しながらも傑の下から這い出て私に目配せをした。
私はすぐに傑の背中を撫でる。
お母さんは遮光カーテンを開けて、窓を開く。明るくなった部屋に長閑な風が入り込む。しかし傑の嘆きの壁はひどく、ぶ厚い。
苦しみ喘ぎながら傑は私を突き飛ばす勢いで暴れ始めた。彼は大きい。筋肉もついていて、私では太刀打ち出来ない。
「ぁ、゛あ、ぁあ゛あ゛あ」
「傑! すぐ、とまって!」
不規則に頭を振り回しながらその長い黒髪が暴れ回る。涙を多大に含む絶叫に私は心が押し潰されそうだ。彼の苦しみに当てられて視神経が焼き切れそうになる。
私は、傑の苦しみを聞いたことがなかった。
いつだって傑が私の背中を撫でてくれていた。どうしてバケモノなんかが見えるのかだって聞いたことがないことに私はひどく後悔した。傑の手が髪の毛を乱暴に引っ張る。抑えようと手を掴むが、すぐに解かれてしまう。何度試しても傑は独りで落ちていく。
そのとき。勢いで傑の手の甲が私の頬に激しくぶつかった。バチン! よりも重い音。
頬よりも口内の歯茎に当たる音がした。
その衝撃は凄まじく、口の中は切れて口内に歯が食い込んで穴が開くのではないかと思うほどだった。思わずよろめき、もつれた足のまま後ろに倒れ込んだ。
思わず出た痛いという言葉に傑が息を荒げながらも、私を見た。
口の端も切れたのか口の中も外も痛くて気持ち悪い。溢れていた涙の勢いが強くなる。
お母さんも小さな悲鳴をあげ、顔を青くしながら水とタオル持ってくるね! と叫んで部屋を急いで出ていった。
傑は静かに私を見ながら泣いている。
「……かなた」
「痛いね、傑」
傑の大きくて重そうな涙がぼたぼたと畳に落ちる。涙だけで世界が溺れてしまいそうなくらい泣くものだから、痛いよりも悲しい。
私は傑目指して畳を這う。そして、もう一度傑を抱き締めた。
再びの抵抗はなく、大きな身体は水分が出る度に小さく萎んでいくようだった。頭を抱えながら小さい子どもが泣くように全身から彼の悩みや苦しみが溢れ出ている。
その一つ一つを拾い上げて愛してあげられるのだろうか。
傑が顔を上げるより早くお母さんが桶に水を入れて、濡れタオルを二つ持って戻ってきた。一つは口を切った私に、もう一つは泣きじゃくる傑の顔へ。ひんやりと冷たくて清潔な白いタオルに血も涙も吸われて消える。
痛みも苦しみも悲しみもじわりじわりと白に溶けていく。お母さんからタオルを受け取り、しゃくりあげる傑の顔を優しく撫でた。
私たちは、どれだけ身体を重ねても言葉が足りなかった。
「かなたちゃん、お母さん下でご飯の用意してるから。お話できて落ち着いたら降りておいで。ね?」
お母さんは、なんというか、本当にお母さんだ。優しい声音でまた後でねと言って部屋を出て行った。私の言葉にお母さんも混乱しただろうに、何も聞かないでくれるのが有難かった。
気付けば地球は呼吸を再開していて、開いた窓からはそよ風の音、その風で揺れる木々の音が控えめに入ってくる。
その隣で私たちは静かな呼吸をしていて、傑の涙たっぷりな湿度の高い呼吸は落ち着きつつある。
その代わりに苦しげな嗚咽が混ざってきて、本当に子どもみたいだ。
あの傑が、と思ってしまうあたり私は傑を理解してあげられていなかったのだろう。
命が巡る前、ずっとずっと前から苦しみ続けていたのだとしたら、本当になんて十字架の課せられた命なのだろう。そんなに悪いことだったのだろうか。命が重く、そして奪われるべきものじゃなかったとしても、それでもこの大きな身体がぺしゃんこに潰れてしまうくらいの大きな罪だったのだろうか。
もし、そうだとしても。
私は、許してあげたいなぁ。
「かなた」
「うん」
「……ごめん、なさい」
うん、の返事の代わりに頭を優しく撫でる。爪を立てないで指で髪を梳くように撫でる。くちゃくちゃに乱れた傑の頭頂部にキスを落とすと、ようやく顔を上げた。
耳も頬も鼻も目も真っ赤で、鼻からは滝のように鼻水が流れ出て、口はまだ震えていた。
「大丈夫だよ、傑。私たち殺人犯同士でしょ。怖くないよ」
何度太陽が沈んで、何度月が上っても傑が泣きやむまでは傍にいる。私を殺したのが、たとえ傑だとしても私は今の傑を愛しているから、もういいのだ。
あの時死んだから今があるのだというのなら、やっぱりそれは正解だったのだと私だけは思うから。
私が何日だってそうしていようと覚悟していたのに対して、意外にも傑はものの数分で落ち着いて目をシパシパさせた。
「傑、タオル使いなよ」
「うん」
「鼻水も拭いたほうがいいよ」
「うん」
「傑が好きだよ」
「……うん」
私の涙を吸ったタオルを桶の水で流して、綺麗にしてから鼻水たっぷりのタオルと交換する。水気を切りきってない冷たいタオルを顔に乗せて、少し呼吸が落ち着いたようだ。
「……多分、前世なんだ」
「うん」
苦しみで掠れた声がぽそりぽそりとこぼれ落ち始めた。開いた窓と襖からはお出汁の匂いが漂う、穏やかな殺人告白の昼だ。
呪霊、呪術師、非術師、犠牲、強者、弱者。
術師というマラソンレース。
非術師の罪、夏油傑の罪。
信じ難いと言えばそれはそうだが、しかし世界は常に何かの犠牲の上に立つものだから、そういう犠牲もあるのかと納得のできる話でもあった。そして同時に内臓丸ごと持っていかれたような寂しさのある話だった。
傑は自分を正義として正当化することは決してしなかった。自分の救いたいものが、より多く救われる世界とは何なのかという考えであり、また、その為なら自分をすり減らせることなんぞ当たり前なのだという。
どこまでも、誰かを救いたいと願う男が夏油傑という男だった。
自分だって、自分の大切なものだっていつも犠牲になっているというのに。
「ねぇ、傑」
「なんだい」
「傑はそんなに悪いことした?いつだって救う選択肢しか取れないのに。誰よりも優しいことしか出来ないのに」
「よくそう言えるね。君だってあの村で私に殺されてるのに」
「別に気にしてない」
傑は不思議そうな顔をしてから、そして初めて見せる安堵の表情を浮かべた。
アラサーの男にしてはあまりに表情が優しくて柔らかくて幼い。お腹の中にしまって、一生ずっと守ってあげたい。
そしてその重い十字架なんて、私の胃酸で溶かしてしまうのだ。
「今は、笑えるよ。昔とは違うんだ」
「私がいるから?」
「自意識過剰だな」
「なんだとこの、」
ささやかに触れる唇は温かいけどかさついていて、愛しくて、舌を絡めて身体を絡めて、今世の命に初めて感謝した。
二人で階段を降りると、お母さんは不安そうな顔でテーブルについていた。
私たち二人を暫く見つめて微笑むまでたっぷり十秒はあっただろう。すでにテーブルには豆腐と油揚げの味噌汁とだし巻き玉子、ほうれん草の炒め物とご飯、長芋とナスの漬物が置いてあった。
お母さんの座って座って、という言葉に従って椅子に座ると椅子が軋んだ。
脚の長さが揃っていない椅子は不安定にあちこちに揺れる。
「お話出来たのね?」
「うん」
「それならいいの。お母さんからもお話があったから」
まずはいただきます≠オましょうの声で手を合わせると、三人揃って味噌汁に口をつけた。まるで家族みたいだとお母さんが笑うからほんの少しだけそれもいいなと思う。
「あの」
黙々とご飯を食べ続ける空間で話を切り出したのは傑だった。
「色々、聞きたいことがあるんですが。かなたが親を殺したというのは聞いています。ですが、あなたが今お母さんと呼ばれているのはなんですか」
確かに。傑はそれを知らない。
私がどうしようかとお母さんを見ると、お母さんは箸を置く前にとろろご飯をかきこんで、口の中をいっぱいにしてから箸を置く。
結構マイペースな人だ。
お母さんがゆっくり咀嚼して飲み込むまでの間、傑と私もどうしたらいいのか分からず、二人して漬物をつつく。
ごくん、という音がした後お母さんがゆっくり口を開いた。
「高雄さんと真美さんを殺害したのはかなたちゃんじゃありません。私です」
え、と思わず出た声は私と傑の声が重なったものだった。傑が私を見る。彼は私が今言ったことももう既に知っているのかと思っていたようだが、生憎全くの新情報だ。
私がすぐに首を振ると、お母さんに向き直る。お母さんは穏やかな顔をしていた。少し白髪混じりの茶髪が逆光できらりと光る。
「嫌な気持ちにはなると思うけど、話を聞いて欲しいの」
お母さんはそれから、ゆっくりと話し始めた。
私は高雄と呼ばれる父と智恵と呼ばれる母との間に生まれた。高雄と智恵さんは兄妹で、ゆえにその関係が表沙汰にされることはなかった。
「私はね、べつにお兄さんとの子でも私が育てるつもりだったの。でも出産後、私の体調が悪くなって。入院が長くて……そんな時、真美さんが自分の子どもみたいに預かるって、言ったのね」
自分には子どもがいないから、育てる余裕はあると言ったらしい。その時間軸を考えるに、我が父は妹と不倫をしていたということだ。その自己中心的な行動に腹が立つ。
しかし、お母さんはそれを責める気がないのか、そのことには触れない。
思わず固まる私たちに食事を続けるように言いながら言葉は続く。
「真美さんは大切に預かるって言うから、私身体を治したら必ずかなたを迎えに行くって言ったのよ。でもね、きっと私とお兄さんの子どもだって周囲にバレるのが怖かったのかしら。お兄さんは自分と真美さんの子どもだって役所に届出を出してしまったのね。私が迎えに行った時、真美さんからあなたのようなアバズレに子どもは渡せない、って」
それで私があの二人を殺したのよ。
耳鳴りがするような静寂に包まれる。
お母さんの声は優しいが、静かな殺意が冷気のように漂っていた。
「お兄さんに話をしに家へ行ったとき、真美さんが〇〇ちゃんに怒鳴りつけているのが聞こえてた。勝手に私の子どもを奪って、そのうえ虐げるなんて」
言葉が止まる。
テーブルの上で組まれたお母さんの拳が震える。かたかたと震える箸を見つめた。
お母さんが言うには、お母さんが家まで押しかけるから私を祖父母が亡くなったあの家まで連れて行ったらしかった。しかし、その動きは見事にお母さんにバレてあえなく殺されて死んだ。
全て包み隠さず明かされる真実も、こうして話せるようになるには十五年以上の年月が必要だったのだろう。
「高雄さんと真美さんが亡くなった後、私があなたを迎えようとした時だった。あなたへの虐待がご近所さんからの通報で問題になって、あなたは児童相談所に預けられることになっての。そこから施設へ。私は安易にあなたを迎えに行けなかった」
ごめんなさい、と謝るお母さんに私は疑問を感じた。
私は、私の命が一ミクロンだって望まれたものではなかったと、この三十年に近い年月思い続けてきた。死を望まれ、生まれてきたことを疎まれ、呼吸をすればため息をつかれる。
でもそうじゃなかった。
私はそれだけでいい。
それだけが知れて、本当によかったのだ。
傑が箸を置いて、右側に座る私の太ももに右手を乗せる。大きな手に私も左手を重ねて、強く強く手を握った。
「もういいよ、お母さん。私、もうそんなに不幸じゃない。傑がいるからもう大丈夫」
テレビ、小説、雑誌、ポスターエトセトラ。
とにかく今までの一度だって思ったこともなければ、口にすることはないだろうと思っていた言葉。傑が私の手を包み込んだ瞬間に、
「産んでくれてありがとう、お母さん」
確かにそう思って口にした。
お母さんは泣き崩れて長い髪をとろろご飯に突っ込みそうになっているのを傑が注意して、そして三人で笑った。
← ∵ →