事実の分裂
思い出す。
脳みそをぶちまけたような衝撃と赤。
窓が少し開いていて、カーテンが揺れていた。白のレースカーテンが赤くなって、
吸った血で軽やかに揺れなくなってたな。
それと臭い。鉄棒の臭いがしたな。
結局逆上がりは出来なかったな。
でも、親は殺せたなぁ。
覗く青空に汗と血が混ざる。
外で犬が吠えている。
夏、鳴き続けるセミを踏み潰した猛暑日、ではないか。秋口、そう秋口だ。八月のカレンダーを切り取ってから数日が経っている。セミは踏む前に死んでいた。
その日は残暑が厳しくて、陽炎に足が縺れそうな日だった。ジリジリとコンクリを焼く陽射しがセミの死骸と血のついた私の靴をついでに焼いていた。
身体は沼底に沈むように重たかった。
もう夏休みも終わった平日の昼過ぎの住宅街は静かだ。住宅街の中に並ぶ没個性的なクリーム色の壁をもつ一軒家の前で足を止めた。
夏油と書かれた表札は見慣れているくせに、なぜだか何度も確認してから玄関のドアノブを回した。
嗅ぎ慣れた家の匂いが溢れる。
綺麗に整えられた靴の列の中には父親の革靴も並んでいた。意外にも父親は仕事が休みのようだ。手間が省けて丁度いい。綺麗に磨かれたその革靴を踏み土足でフローリングを進む。リビングの扉は閉じている。中からはお昼のワイドショーの声がした。恐らく冷房の効いたリビングのソファーで父親はのんびり過ごしているのだろう。扉のガラス越しに視線を携帯とテレビで行ったり来たりしていた父親の様子が見える。
心は凪いでいた。
覚悟は手の震えをかき消した。
私が部屋に入ると、父親は私の名前を呼んで手を上げてきたので、殺した。
一瞬ではらわたを失った父親の口から溢れる血が制服につく。じわりと広がる赤いシミ。もう他の猿と父親の血の見分けはつかない。ごとりと音がするのは頭部だ。赤いフローリングの上を頭はごろごろと少しだけ回転して転がる。ソファーにぶつかって止まった頭に表情はない。
母親は風鈴揺れる窓の向こう側におり、庭で花に水をやっていた。冷房をつけている時に窓を開けるなと私に注意していた母親は自らその注意を犯していた。
父親にしたように母親の名を呼ぶと、母親もこちらを振り向いて手を上げた。
伸ばしたホースから溢れる水を抑える者がいなくなり、ホースは苦しげにのたうち回る。陽光に苦しい嗚咽が反射して、きらきらと輝いていた。そんな風に光を放つ水は清らかに見えても、カルキに染まった都水だということが皮肉に思える。
所詮、この世界で真に美しいものなどないのだ。そう言われている気がした。
「手を上げたの?」
「暴力じゃない。挨拶だよ。おかえり、そう言って手を上げた親を殺したんだ」
「……どうやって?」
「さぁ。前世の記憶だからね。凶器ははっきりと覚えていないんだ」
夏油はそう言って、駅のホームでベンチに座って項垂れながら笑みを含んだ。ゴウゴウとうるさい風は夏油の髪を揺らさない。笑っているのに泣いているような大きな身体は折り畳まれている。
前世の記憶だと、もう既に終わったものなのだと彼はしっかりした声で宣言していた。
しかし、その過去の記憶の温度も匂いも光も影も、全て覚えているのだ。
それだけ骨身に染み込み決して離れない苦しみは彼にしか分からない。だとしても、過去のものだと簡単に割り切れるようなものではないのは痛いほどに伝わった。
肩が触れない二十三cmは意外と遠い。
夏油の肩を叩くでも、背中を撫でるでもなく私は顔を上げた。
ホーム越しに見える桜は自ら望んで花弁を散らす。空気を大きく揺らす電車音が迫って来ているのに、夏油はホームを動かなかった。
「夏油って一番ホームじゃないの?」
「君ともう少し話がしたい。この話を人にしたのは初めてなんだ」
「私も同じ殺人犯と話すのは初めてだよ」
「貴重じゃないか。喜んで欲しいね」
脳を揺らす風を切って電車がホームに入って来る。夏油がベンチから立ち上がると、痛いくらい靡く黒髪の向こう側に顔色の悪い疲れたサラリーマンが四人見えた。今にも線路に飛び込みそうなその顔から目を逸らして電車に乗り込んだ。
夏油はデニムの右ポケットから髪ゴムを取り出して、髪半分を纏めた。ハーフアップになった夏油の表情は険しい。
私たちは言葉を交わすこともなく、電車に揺られた。平日の昼頃の電車の客層は様々だ。人混みを避けるように車椅子スペースの少し奥まったところに二人して落ち着いた。車内の手すりは生温く、人混みの温度のようで気持ちが悪い。夏油はどこに掴まるでもなく、ただ窓に寄りかかって立っている。私はと言えば、そんな堂々とした立ち姿を出来ずに気持ち悪い手すりに掴まったのだった。
揺られて二十分。最寄り駅で私が降りれば夏油も当然着いてきた。彼は俯いておらず、病院での様子も今は感じられない。
強いて言うなら精悍な顔つきの体格に恵まれた好青年、と言ったところか。
「家で構わないよ」
「それ夏油が言うことじゃなくない?」
「あ、ポテトでも買ってく?」
「人の話は聞こうね」
駅最寄りのファーストフード店でポテト三個と期間限定バーガーを四個とえびフィレオ一個を買って帰路についた。ポテト三個とバーガー四個は夏油の分だった。
途中、夏油は女に囲まれた。健康的な肉付きの無敵そうな女子高生たち。どうやら女子高生に私は見えていないらしい。夏油はニコリと笑って受け取った連絡先をそこら辺の適当な大学生風の男に渡した。
いいのか、と聞いた私に夏油はあっさりと答えた。
「女連れの男に声を掛ける方が悪いよ」
それもそうか、と揚げたてのポテトを一本かじる。付き合っているわけでもなんでもないのに? という疑問は意外にもその時は浮かばなかった。
青々と光る街路樹の横を進む。住宅街の傍にある街路樹は子どもの泣き声で揺れている。あちこちから響く生活音で吐き気を催してふらついた私を夏油が支えた。
二人三脚というには余りにおざなりな状態で進むと、すぐに生成色の二階建てアパートは顔を出した。住居にしているメゾン桜木。私は階段の手すりに全力で捕まりながら二階一番奥の部屋へ歩みを進めた。
どうぞ、と私が促したわけでもないが鍵を開けた私に続いて夏油は遠慮なく部屋へ上がった。風の音がしない空間。
私はいつも決まったようにカセットで録音したラジオ番組の音声を流す。キュルキュルと回るカセットテープは何度も何度も聞いて擦り切れそうだ。しかし、母親の嫌いだったラジオを聞くのが一番落ち着くのだ。
「ラジオか、いいね」
「随分前のラジオ番組だけどね。今はもうやってないし。夏油もよく聞くの?」
「あまり聞かないかな。でも嫌いじゃない」
「麦茶でいい?」
「麦茶は好きだよ」
統一性のないグラスの中の一つを手に取って、冷たい麦茶を注ぐ。すぐに汗をかき始める気だるげな犬のキャラクターが描かれたグラスを夏油に渡した。
夏油は髪を解くと、窓から外を覗きながらグラスに口をつけた。私は柄のないグラスに麦茶を注いで、夏油の向かいにあるうぐいす色の座椅子に腰掛ける。私の動きに倣って彼も床に腰掛けた。
座ってすぐに夏油は紙袋を開いてえびフィレオを私に渡した。まだほんのりと温かいバーガーに噛み付くと、ソースがじゅわりと溢れる。
夏油はバクバクといった効果音が似合いそうなスピードでポテトとバーガーを胃に流しこんだ。人と食事をするのはいつぶりだろうかと記憶を遡る。
暫くカサカサという紙の音と擦り切れそうなラジオの音声、ポテトの油の匂いだけが部屋に充満した。さくっとした音の向こう側で雲が空を走っていた。
食事を終えて、受け取った薬袋から錠剤を取り身体に流し込んだ。じわじわと思考が染まっていく感覚。脳を痺れさせて鈍らせる薬。身体は重くなり、ぼんやりと過ごせば意識は床に落ちて沈んでいく。
しかし、それでも風は吹く。
ひとごろし
お前が死ねばよかったのに
生きてる意味なんてないのに
「……静かだね」
とうとう夏油は応えてくれなくなった。彼はじっと私の目を見つめている。
視神経の奥まで見ようとするような視線に思わず私は目を閉じた。夏油のことを必要以上に意識しないよう、風の音に耳を澄ませると、すぐに聞き慣れた音が響く。着信音だ。見れば通知は非通知。
昔から非通知の着信が多いのが悩みだ。
「携帯、鳴ってるよ」
「見てよ、非通知ずっと鳴ってるの」
夏油は私から携帯を受け取って画面を覗く。
すると意外な声がした。
「……母って書いてあるけど」
「え?」
「君が殺したのは、親じゃなかった?」
夏。カーテン揺れる窓と、赤。
持ち帰ってきたミニトマトの鉢植えが見える。ぬるぬるとした赤。差し込む強い陽光が転がった肉体を照らす。
転がっているのは誰だ。
転がる手足を見る。私を殺す手足。
私の生を否定する手足、口。
赤い身体。
いや、待て。
その赤は違う。
崩れた身体が背負うは赤。
赤いランドセル。
───────私が倒れている。
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