呪霊玉




悲しい、と言えない子どもの声だった。
言葉にならないから泣き叫ぶ。
幼さ故の行動でありながら、でもそれを笑って見下して指さす図が、まるで自分が笑われているみたいで嫌だった。

春が散って夏に花開き始める頃、春の花は雨に濡れて人々に踏み散らかされていた。そこに誇らしげに見上げる姿はない。
等級の低い呪霊がそれを惜しむように木に絡みついているのを無視して、最低限買った食材を少し揺らす。別にお金には困っていないが、贅沢が身に染みているわけでもない。
水溜まりと非術師を避けながら赤茶色の波模様が走るコンクリートの上を、献立のパズルをしながら歩いていた。


高専3年秋。残暑厳しい9月。
私はあの日から非術師の為の呪術師をやめていた。その日から高専を卒業するまでの1年半は謹慎と悟の監視がついた。
美々子と菜々子を見つけた村で私は非術師に見切りをつけ、ざるを得なかった。
弱者生存。それが呪術師としての正義だと信じてやまなかった私が大きく揺らいだ。
出来なかった。どうしても、それ以前の私に戻ることは出来ない。
怒りと失望と脳内を過ぎる青い春。
悟が事態を聞きつけて駆けつけるまでの間、
村人の鼻を折り、眼窩を陥没させ、肉を抉るほどに殴り続けた。
私の腕に響く悲鳴と絶叫は、日々呪術師が震えながら我慢して飲み込んできたものだ。
今更なんだと言うんだ。
お前たちが我慢しろ。
痛いだろう。そうだろう。

痛いし、怖くて、不味いものなのだ。
これがしわ寄せなのだ。



高専にはいられなかった。
とはいえ貴重な特級呪術師を手放す呪術界ではなく、籍はそのままとなる。
美々子と菜々子はまだ幼いという点と極度のストレスからの精神状態を鑑みて、高専で保護という形をとられた。
呪術界を信用してはいないが、夜蛾先生が保護者となる話を聞いてそれならと納得した。
私は高専を出た。
夜蛾先生からの条件は1つ。
大学に通うことだった。


勢いで出てきたが、静かなアパートの2階角部屋に住むことが出来たのは幸いだった。
大学にも徒歩で通える。
お隣さんは井口さんという中年男性で、少々態度の悪かった私に若いね、と笑って挨拶してくる人だった。

非術師と関わらないように最低限の接触での学生生活が始まった。特別楽しくもなければ、かといって殺意と憎悪で頭がぐちゃぐちゃになって記憶が飛ぶような頭痛に悩まされることも減った。
月2回、家やファミレスで美々子、菜々子と顔を合わせる。
2人は明るく笑うようにはなってはいたが、それでも時折横を通る大人に肩を震わせていた。その度に腹の底に蠢く呪霊たちが『殺せばいいのに』『鏖殺しろ』『皆殺しだ』なんて私に囁いている気がした。
でもそれは出来ない。そこまで私は狂っておらず、また、私の善性を心から信じている悟の目を思い出すからだった。

まだ入学して間もなく、井口さんから頼まれ事をされた。親戚の子を頼む。
そんなの、頼まれる訳ないじゃないか。
非術師をどれだけ避けていると思っているんだ。

「でも君、人間嫌いじゃないだろ」

口では否定した。しかし、非術師とか呪術師とかでなく“人間が好き”という言葉になんとも思わない訳でもなかった。

結局、かなたの世話を焼いてしまった。
商店街の片隅、汚れたトートバッグを振り回しながら泣き叫ぶ幼い姿。
それに携帯を向けて笑う周囲。
何故助けてやらないのか。
何故悲しいと叫ぶその姿を笑うのか。
どうしても、私は私であるがゆえにその図が許せなかった。
彼女が『美味しい』と笑う姿を見て安堵した。美々子と菜々子が初めてきちんと食事をした時に似ている。
境遇は違えど、環境に苦しめられている姿に非術師も呪術師もなかった。



彼女から産み出た呪霊が母親を食い散らかしたのも、どこかで仕方ないという気持ちがあった。同時に、彼女を救わなければと思った。私が笑えば、嬉しそうに笑う彼女なら変われる気がした。だから、クリスマスの夜に私は急いで帰りたかった。
美々子と菜々子とかなたと私の4人で、擬似家族みたいなものでも一般的な家庭のように過ごして欲しかった。時間がなくて急いで用意したチキンバーレルと定番のケーキ。

その日も、泣き声がしている。
幼い泣き声が雪降る静かなアパートで僅かに聞こえる。嫌な予感がして私は走った。
24時間スーパーなんか寄るんじゃなかった。
もっと早く帰って来るべきだった。
痛いほどに冷たいドアノブを回す。
泣いているのは美々子と菜々子だった。


かなたの姿をした呪霊がかなたを食いちぎっていた。あらぬ方向に折れた首、臓器が溢れ出て潰され、本来の中身よりきっと少ない。
かなたの反応があるようには見えない。
私が一歩部屋に足を踏み入れると呪霊はこちらを向いた。

「ス、グル、スグぐん」
「……かなた?」

もう興味が失せたのか呪霊はかなたの身体をぐちゃりと落として笑う。人の口の10数倍はある大きな口を鋭い歯を見せながら吊り上げる。

「ゴ、ゴバ、タベヨォォ」

美々子と菜々子がその言葉に我慢がきかなくなったのか泣き叫び始めた。
『ご飯たべよう』かなたはそう言っているのだ。呪霊は恐らく、食べた人間を模すのだろう。目頭が焼くように熱い。溢れて溢れて、喉が詰まる。震えながら真っ赤な部屋を進むと、足元に別の死体があった。成人男性のものだろうか。しかし私はそこに興味がない。

「げとうさまげとうさまげとうさまぁ」
「げとうさま、かなたが、かなたがぁ」

呪霊はこちらを襲わない。美々子と菜々子も襲わない。知能がある。呪力量を考えても準一以上の等級だろう。しかし人を襲ってこない。いや、私たちを襲わない。

泣きじゃくる美々子と菜々子を抱き締めて優しく背中をさする。ここまで2人が泣きじゃくるのは珍しい。2人を保護した最初の夜の夜泣きくらいだ。

「大丈夫、落ち着くんだよ2人とも」

背後にいるかなたの姿をした呪霊の手が自分に伸びてくるのが分かって振り向く。細い腕に敵意はない。

「ダイ、ジョ、ジョブ?」

細くて指が増えて目のある小さな手が私の背中をさする。

かなた、どれだけ苦しんだんだい。
かなた、どれだけ痛かったんだい。
かなた、どれだけ辛かったんだい。
こんな、姿になってしまうくらいなんて。
あんまりだろう、だって、呪霊になってまで私たちを想う子なんだ。
負の感情は怒りだけじゃない。
彼女の苦しみがこの赤い赤い部屋なのだ。

子どものように泣くかなたの姿を想って、美々子と菜々子と私は泣いた。
その後に飲み込んだ呪霊玉はいつもより塩辛くて、誤魔化すようにトマトスープを飲んだ。






「高専に戻る?」
「ああ、戻るよ」

悟に連絡すると、悟は驚いたような、喜んでいるような声音で私の言ったことを繰り返した。

「何の風の吹き回し?」
「別に、家族でいる時間を増やそうと思っただけかな」
「……家族って、美々子と菜々子?」
「まぁね。あともう1人いるけど」
「また拾ってきたワケ?」

拾ったんじゃなくて飲み込んだよ、とは言わなかった。

さて、今日の夕飯は何にしようか。




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