焼き芋



私が訳も分からない恐怖で冷や汗をかいたのは初めてのことだった。
歯をかちかちと鳴らさないことに必死で強く奥歯を噛み締めた。もう乾燥して赤茶色に変色して固くなっていたが、それは血にまみれた私の衣服。更に言うなら、私の着慣れた寝巻きだったからである。シンプルな寝巻きからはリラックスどころかサスペンスの香りしかしない。思わず短く吐息が漏れる。


目敏い彼が私の血の気ない表情に気付かないはずがなかった。私が彼にカバンを渡したあと、校舎を出るまでの間、彼の視線をぴりぴりと刺激のように肌で感じていた。
彼は何も言わない。
無駄に風と同じ学生の歓談する声が遠くに聞こえて、世界がまるで切り離されたかのようだ。


何故ここまで私が震えてしまうのか、
何故傑くんがそんな物を持っているのか、
全く分からず頭が真っ白になっていくだけだ。とりあえず一度帰宅して1人で考え直そうと、下りの階段に足を掛けた瞬間、左腕が強く掴まれた。斜め上に引き上げられた腕を引っ張ったのは勿論傑くんだ。


『来なさい』

声が聞こえる。

『あんたはいつもそう』

いつの記憶?
整えられた眉を顰めて女性が私に怒鳴る。
怒号。私は。




「ついておいで」

私ははっと意識を戻した。
傑くんは髪は茶色くないし、そもそも女性でもない。私は曖昧に笑って、頷いた。
ついてこい。
そう言われては、私は断れないのだ。
元来私は人の言葉に逆らえない人間だが、だとしても彼のその言葉には逆らわせる気のない強い意志を感じた。鎖のような重みに絡め取られながら、私は黙って傑くんの後に続いた。

大きな背中は少し猫背で、そして速い。
いつもはそんなことがないので、いつもは私に合わせて歩いてくれているのだと嫌でも痛感した。


着いたのは民俗学などの研究室がある棟の駐車場横だった。用務員さんが集めたのか、枯葉の山が出来ている。

「焼き芋するんだ」
「……え?焼き芋?」

傑くんはさも当たり前かのような顔でリュックからアルミホイルに包まれたさつまいもらしきものを6つ取り出した。
ふわり、風で枯葉が舞い崩れていくその山に傑くんは私の寝巻きが入ったカバンを放り投げた。そして持っていた新聞紙にライターで火をつけて枯葉に火を移す。

ぼわっという音の直後、ちりちりと音をたててカバンに引火した。カバンからは黒い煙が出始める。傑くんは動揺した様子も見せずに近くに落ちていた木の棒で枯葉を再度集めて、火の山に黒い煙を閉じ込めた。
そして、そこにアルミホイルに包まれたさつまいもを放り込んだのだ。

あの、血の燃える火の中に。


途中、見覚えのある教授が
「言ってたやつか、出来たら1つ寄越しなさい」と笑って言っていた。
もう根回し済だということか。

尚更私の中に疑問が積もる。
上る煙の中に母親の臓物を切り裂いたのかもしれない血が混ざっているのだ。
いや、だとして何故。

私は殺していない。



本当に?



本当、のはず。
だってあの日は、私は、大学に。

大学に行く前は?

行く前、は……シャワーを浴びて、お弁当を……。

その前。

その前、は。



ちりちり、ぱちぱちと燃える火が私の海馬まで燃やし尽くしてしまえば。




隣に立つ傑くんを見上げる。
傑くんは笑っていなかった。
黒い双眸に揺れる赤色が反射している。
時折吹く冷たい風が彼の髪を揺らす度に私の脳が赤く弾けた。
重なる。揺れる長い髪の毛。
ふわりふわりと。


「君は殺していないよ」

私が私の喉に両手を掛けたところで彼は言った。あと、それで死ぬのは無理があるよと補足さえされた。

「君は殺してない。ただ、居なくなってしまえばいいのに。君はそう思っただけだった」

傑くんは目線を低くして、火の調子を見ている。私が燃やし尽くされることのないように。

「どうして」
「かなたは呪いを信じるかい」

呪い。私は頭の悪さから言葉を繰り返すことしか出来なかったが、それでもハッキリ彼はノロイと言った。

ノロイというものは伝承として古い歴史をもつ。そもそもノロイとはマジナイとも読む。祈祷や祈願と言ったものも大きな枠組みとしては同類とされているし、私はマジナイに関しては昔から信じてやまないものの1つだ。
毎朝の占いは必ず見るし、ラッキーカラーは身に付けるタイプで、マジナイの本を腐るほど見た記憶がある。

彼と目線がかち合う。私が頷くと、彼はまた火の様子と煙の様子に目を配った。

「呪いは存在するんだ。人の負の感情から生まれる。そして人を殺す」

循環さ、と彼は付け加えた。
努めて彼は明るい声音で言っているが、彼の嫌悪が詰まっていることは言葉の端々が出る緊張感から痛いほどに感じた。

「負の感情、って?」
「そうだね。君で言うなら『怖い』『痛い』『やめて』『助けて』『もう』」

『ぶたないで』


私はあの日、確かにその言葉を思った事を思い出していた。





朝8時、朝食とお弁当のことを考えながら歯を磨いていると来客。特に何も考えることなく扉を開けると、立っていたのは母親だった。顔に怒りやら不満やらがでかでかと書いてあり、私は私の思考が止まるのを感じた。玄関にあがってまず持っていたカバンで顔を1発。そのあと5回腹を足で蹴られる。痛かったのか苦しかったのか。でもとにかく私は逃げようとベッドの方に足を縺れさせながら進むが、そこで足を引っ掛けられて転ぶ。背中を蹴られる。油断したせいで舌を強く噛み、顎を床に強く叩きつけた。
うん。痛かった。
その時私は初めて、思ったのだ。

こんな人、消えてしまえばいいのに、と。




私は気付けば血の海に立っていた。
何故、そんなこと忘れていたのだろう。

私はその後着替えて、朝食を食べて大学へ向かった。そんなの異常だ。私はおかしい。
母親を手に掛けておいて忘れて大学に行くだなんて。そんな!


「かなたは殺していないよ」

再度言葉は続いた。火の勢いが少々強くて、溢れる涙が次から次へと火の熱で蒸発して顔を焼き付けていく。

説明は難しいのだと彼は小声で言う。

「君は親からの仕打ちに耐えきれず呪いを産んだ。そしてその呪いが君の親を食べ殺した。自業自得なんだよ」

そうだろうか?



その日、傑くんは大学から帰ってきたその日、家で料理をしていた。すると強い呪いの気配を感じたそうだ。私の部屋、ごく近くの隣の部屋だ。傑くんが私の部屋に入ると呪いが私の母親を食い散らかしていたのだと言う。そしてその呪いは、食い散らかしている母親の姿をしていたのだと、それはもうにわかには信じ難い話だった。

私が母親似の呪いを産んで、その呪いが母親を食い殺した。


母親が憎みきれなかった。
死んでしまえなんて思っていなかった。
私は母親から愛されたかった。
ただ、『頑張ったね』と、ただただ一言笑いかけて抱き締めて欲しかっただけなのに。

私が殺した。


「かなたは殺していないんだ」
「でも私が呪いを産んだ」
「その通り。君は愚かだ。でもそもそも呪いを産んだ原因は親にある。それなら呪いの実態は……親だ」


そんなことを受け入れられない。

私は優しい優しい大きな背中を突き飛ばして走った。私を呼ぶ声が私の背中を追ってきたが、傑くん自身が追いかけてくることはなかった。
その日の夕方、ピンポンが鳴って玄関の前には冷えた焼き芋が置かれていた。





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