レンコンのはさみ揚げ
鼓膜を突き刺すような金切り声。
言葉の意味はもう私の中に落とし込めるような量ではなくて、ただただ目の前のこの人が私を否定していることだけが分かる。
私を産んで、母親は女でなくなったらしい。
産みたくなかったのだと言っていた。
繰り返し繰り返し、私の死を望みながら生かして私に何かを期待する。
いつものように噛んだ右手親指からは血の味がした。
そんな母親の後ろにはいつだってテレビや携帯を眺める無関心な父親がいた。
振り向いて欲しかった。
でも振り向かれることはなく、ただ私の精神は摩耗し、擦り切れ、気付けば親の言うことにただ付き従う亡霊になっていた。
私を従える人間が、真っ赤に染まって部屋の床に転がっているのが私には恐ろしいようでいて、それ以上に不思議な感じではあった。
今その後ろに父親はいない。
いつも私に微笑んでくれる優しいお隣さんがこちらを振り向いている。
私はカラカラで貼り付く喉に生唾を流し込んで血塗れの空気を飲み込んだ。
血溜まりに足を運ぶとタールに足を突っ込んだような重み。母親の怒号がフラッシュバックして足に重石をつけようとしてくるのを、首を振って部屋の外に追い出した。
血の気の引いた震える手でシーツを引っ張り出して母親を包む。なんとか、なんとかならないものだろうか。
傑くんは母親が死んでいると言った。
なら救急車を呼んじゃだめだ。
シーツに包もうと指輪のはめられた腕を持ち上げると随分軽い。
腕が、取れている。
思わず小さな悲鳴をあげて腕を落とすと、血溜まりの血が跳ねた。
呼吸が出来ない。まばたきすら出来ずに視界が揺れ始める。こんなことしている場合ではないのに!急いで隠さないといけないのに!
「かなた、何してるんだい」
「だ、大丈夫!隠せば、消えちゃうから!そうすれば無いことになるよ!」
傑くんの大きな手がシーツを掴む私の手に重なった。意外にも、私よりずっと大きいその手はずっとずっと冷たかった。
「君は私を責めないのかい」
「……それは、傑くんが、お母さんを殺しちゃった、こと?」
落ち着いて、と傑くんは囁いて手足を赤く染めた私を大きな身体で包み込んだ。
傑くんの呼吸が穏やかに私の鼓膜を揺らす。
少し早い鼓動は私の肩から神経を通じて、私の震えを相殺した。温かくて、でも冷たい。
優しくて、でも。
ふと、視界の違和感に気付いた。
部屋は玄関に向かって赤い手を伸ばしているが、他の壁や天井には伸びていない。
それは傑くんにも言えることだった。
ここまで激しく損傷した遺体が間近にあるにも関わらず、傑くんは全く返り血を浴びていないのだ。
「私が殺したと思う?」
「……わからない」
「なら聞いてもいいかな。君はいま何をしようとしているんだい」
「赤い、から。死んでるから、だから」
だから?
「……このままじゃ、お夕飯食べれない、よね?」
傑くんは私を抱き締めたまま、少しだけ笑った。肩口にその温かい吐息が擽ったかった。
「そうだね。まずは夕飯にしようか」
傑くんは自分が羽織っていた上着で私を包んで持ち上げる。私の身体の殆どを包み隠せてしまう上着。ほのかに香る初めて出会った時に嗅いだルームフレグランスと同じ匂いがする。その上着に私の涙が吸い込まれていく。
傑くんはその後、カラーボックスにしまってあるタオルで丹念に私の足を拭いて先に傑くんの部屋に行っているように私に言った。
傑くんは?と聞いた私に、傑くんは優しく、すぐに行くよと答えた。
赤くない手足で急いで部屋を移動する。
少しでもあの鉄っぽい臭いが外に漏れないように扉の開閉に気を付けた。
外はいつも通りの静けさで、乾燥し始めた風が階段を上ったり下ったりしている。
頬が冷たいのにはすぐに気付いた。
泣いているのだとすぐに気付いたけども、
一体私は何に涙しているのだろう。
料理特有の湿気を含んだ温かい空気を浴びるように傑くんの部屋に上がる。
上がり慣れたその部屋の隣は真っ赤なのだと思うとやっぱり涙が止まらない。
母親が死んだから?
もう会えないから?
私は私のやりたいようにやる、と突き放したのは私だと言うのに。
傑くんの部屋の小さなテーブルの上には一輪の彼岸花がコップに挿してあった。
油揚げと大根の味噌汁。
大根の葉とじゃこの混ぜご飯。
レンコンのはさみ揚げ。
ナスの漬物はまだ今日は出さないらしい。
私は傑くんが帰ってくる前に味噌汁に火をかけた。
傑くんは百均の安い食器に料理を盛って、あの日のように私に差し出した。
出汁と味噌、醤油の匂い。
いただきます、と2人で手を合わせてご飯を1口。じゃこは調味料を吸って僅かに柔らかく、そして大根の葉はしゃきしゃきと歯切れがいい。それがもちもちの炊きたてご飯と合って美味しい。
ご飯が少し口の中に残ったまま、熱い味噌汁を少しだけ口に流し込んだ。味噌汁の波がじわじわとご飯を侵食して、思わず深く息が漏れた。
「美味しい?」
「すごく!」
「良かった」
最初の頃は傑くんも私と同じ百均のご飯茶碗を使っていたのだが、途中から何度もおかわりするのが面倒になったとかでラーメンを入れそうなどんぶりを使うようになっていた。
その時それを指摘したときの恥ずかしそうな顔が可愛かったのを覚えている。
「もう一度聞いてもいいかな」
ごっくん、思わず勢いよく飲み込んだ私に傑くんは麦茶を差し出した。
私は僅かに咳払いをして麦茶を飲み込んだ。
香ばしい匂いに先程の鉄っぽい臭いがリンクする。
「私が殺したと思うかい」
「……えっ、と」
「君が家族と良好な関係だった、とは思っていないけど、それでも母親を殺したかもしれない男と食卓を囲んでいても怖くない?」
それは、そうだ。
「だからかなたは泣いたんじゃないか?」
傑くんはとんとん、と目元を指さした。
僅かにひりつく目元。
意識をしてしまうと再びじわじわと目の端に雫が溜まっていく。
怖かったね、ごめんね。と傑くんが謝る。
どうだろう。確かに私は母親から離れたかった。でも、うん、嫌いじゃなかった。
父親も嫌いじゃない。
嫌いになれたことがない。
でもだから泣いたのだろうか?
どうだろう。
「……違う、と思う」
「なにが?」
「傑くんがころ……やったのかは分からない。でも私が泣いたのはそこじゃない」
傑くんは伏し目がちにはさみ揚げを口に運んだ。しゃく、といい音がする。少し味が濃いめのあまじょっぱい味付け。
「やっぱり私は一生この人に愛して貰えなかったな、って、多分そこ、かな」
傑くんは何も言わなかった。
ただ歯切れのいい咀嚼音が静かな空間の中で度々聞こえる。私もはさみ揚げを1口噛んだ。じゅわ、と滲む肉汁とレンコンの相性が最高で、きっと私は実家に居続けたらこんな豊かな食事も知らずに一生を終えていたのかもしれない。
「傑くんが、やったの?」
傑くんが私の言葉を聞いてテレビの電源をつけた。テレビではお決まりのひな壇のバラエティー番組が流れていた。MCの言葉で笑いが起きている。笑い声と咀嚼音。
傑くんの吐息。鼓動。
「私じゃないよ」
傑くんはたっぷり10分くらいためて、小さく言った。
それに私は分かった、とだけ答える。
少し味気のない答えのような気もしたけど、濃いめの味付けの料理だったからそれくらいでいい気もした。
料理を食べ終えて、私が洗い物をする。傑くんは私の隣で洗った物を拭いていく。カチャカチャという音を聞きながら、今後のことを考えていた。母親の死体のことだ。
傑くんが片付けておく、とは言ったものの、特に運び出したような様子もなく、かつ随分早く部屋に戻ってきたものだからどうしたのかが気になる。
なかなか落ちないタレの汚れをスポンジの角で擦りながら考えていると、傑くんは明日は晴れらしいよと教えてくれて、そのまま今日は疲れたと思うからゆっくり休んで、と私に言った。
無茶苦茶言うではないか。
「えっ、と……あの部屋でゆっくりは、ちょっと……」
「ん?片付けたから大丈夫だよ」
「え?どの程度片付いたの?」
「見れば分かるさ」
私たちはお皿洗いを終えてから、いつものようにさよならを告げる。
風に背中を押されながら開けた私の部屋の扉の向こう側は、まるで何も起きなかったかのようだった。
ただ1つ、私が手に取ったシーツの端にほんの少しだけ赤が残っていて。
私は傑くんの部屋にあった一輪の彼岸花を想った。
「傑くんって、」
その先の言葉は思い浮かばなかった。
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