ナスの浅漬け




少し風は湿気の含みを減らして、乾いた風が茶色い葉を地面に転がす。からからと回る葉を私が避けて歩けば、誰かがその葉を踏む。潰されて、粉々になって風の一部になって土に還る。


そんなキャンパスを抜けて、フロントへ。
長めのエスカレーターに乗って休憩室に足を伸ばした。
この時期の空調は微妙で、暖房がついてないので今日みたいな曇り空の日には少し大学は冷える。それでも休憩室はまだ過ごしやすいのでそこで過ごす学生は多い。カフェテラスは苦手だ。



人とは不思議なもので、勉学を必要とした職業に就くことを強いられていた頃より今の方が勉学は楽しい。たまに傑くんに教えてあげられることが出来るのは、本当に心から嬉しい。

「かなた」

休憩室の扉を開けようとノブに触れた瞬間、パチッと静電気が私の指先で爆ぜた。痛みより驚きで手を引っ込めたところで背後から声を掛けられた。
傑くんだ。
低すぎず、高すぎずに聞きやすい丸みのある声。

「珍しいね、傑くん」
「ああ、たまたま通りがかっただけだからね。私はもう帰るし」
「そういえば倫理の講義取るのやめたの?」
「あー、うん。興味なかったかな」

少し眉を下げて、困ったように笑う青年。
彼はじゃあ、と言って足早に廊下を進んでいった。昨日は2人で自転車で20分先のスーパーのタイムセールに走ったので今日の夕飯はきっと豪華だ。
この時期のレンコンは旬なので、はさみ揚げをするとか言っていた気がする。

最近傑くんに会うとつい癖で髪を触ってしまう。つい前髪を気にしてしまうのがなんだか擽ったくて、もう一度ノブに触れた。




秋になると日が落ちるのは早くなっていて、吹く風は僅かに冷たい。傑くんと作ったナスの漬物のつかり具合を気にしながら帰路を進む。

ふと目に付いたショーウィンドウ。前より伸びた背中はやっぱり頼りないが、それでも殻に閉じこもるように丸くなっていた背中よりは誇ってもいい。

ショーウィンドウの前で少し背を伸ばしてから傑くんみたいに歩こうとしてみる。脚の長さがそもそも違うので彼の足跡をそのまま追うことは出来ない。
それでも少しずつ。少しでも。
伸ばした足は赤信号の横断歩道に差し掛かった。急いで伸ばした足を身体に引き寄せると、左脚が僅かに子どもにぶつかった。

「あ、ごめんね」

私のその声に子どもは何も言わない。気にしてない、わけではない。子どもは確かに私を見ている。えーっと、と声を掛けようとして口を挟んだのは子どもを挟んだ私の反対側に立っていた女親だった。

「えー!めっちゃかわいい!」

私は首を傾げる。しかしすぐに分かった。
女親は携帯と話しており、子どもの方など見てはいない。大音量の声音に子どものシルエットは含まれていない。そんな子どもと目が合い、視神経がじくじくと痛む。
子どもは何も言わないが、しかし私から目を離さずにじっと私を見つめていた。

何か言うべき、なんだろうか。

しかしすぐに信号が青になり、女親は子どもの小さな肩辺りの服を掴んで無理矢理引っ張るように進んでいった。

進むハイヒールと、そのハイヒールに服を引っ張られながら、足をもつれさせながら進む小さな背中を見送った。


私は何か変われたのだろうか。いや、そもそも私が人の家庭にやかく言えたものだろうか。ちかちかと点滅する世界の端に街路樹。街路樹の根元にたった1本だけ竜胆が咲いていた。鮮やかな青紫は分かりやすく花開かない。もっと花に近付こうとして1歩踏み出したが、私の前を数台の自転車が横切り、すぐに信号は青へと変わった。



築年数20年のアパートはそれ程古くない筈なのに、所々禿げたクリーム色が哀愁を感じさせる。そんなアパートの2階1番奥から2番目の部屋が私の部屋だ。ちなみに1番奥は傑くんの部屋であり、その部屋の小窓からは黄色い明かりが漏れていた。安心する色。だからこそ、私の部屋からも黄色い電気が点いていることに違和感を感じた。

おじさんはつい先日、一時帰宅した。
もしかして何か忘れ物か、と思い私は自分の部屋へと歩みを進めた。カンカン、という階段の音を鳴らすと最近は傑くんが部屋から顔を出す。私の生活リズム的に私が帰ると傑くんは夕飯作り真っ只中のことが多い。交わす言葉は決して多くはない。
やあ、お疲れ。
お疲れ、今日の夕飯って煮魚?
なんてその程度だ。
しかし、今日それはない。


まぁいいや、と思いながら部屋のノブに手を掛けるとまた、パチッと静電気が走った。
嫌だなぁと思いながら長袖をクッションにしてノブを回す。鍵がかかってないなんて、おじさんはいつだって不用心だ。
でもそこがおおらかで私は結構好きだったりする。

だから、私は廊下まで伸びた赤い赤い水溜まりと、ドアについた赤い手形にすぐ反応出来なかった。

赤い水溜まりにはむわり、と甘酸っぱいような、金属っぽい匂いが漂っていた。嗅いだことのない大量の血の中心には黒い長い髪が電気に照らされていた。

「え、?」
「おかえり、かなた」
「な、ん?え?」

舌が口の中で声を出すのを止めるが如く絡みついて言葉にならない。長い髪の持ち主はいつものように笑って言う。

「コレ、君のお母さんで合ってる?」

血塗れのカールした茶色い髪。赤くてよく分からなかったけど、服装と雰囲気でその人だとすぐに分かった。でもどうして。

いや、どうしてなんて分かりきっていた。
私が着信拒否したのだから、金づるの私がどうしているのか見に来るくらい想像は出来た。問題はそこじゃない。

ぐちゃぐちゃと鼻と口の位置が狂った顔面に不自然に曲がった骨格。裂けた腹部からはロープのような白っぽいような肉っぽいような、長い物が顔を覗かせていた。

「その反応だと合ってるんだ。良かった、もう死んでるよ」


世界がひっくり返った。




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