あんかけチャーハン





毎日泥を吐き出すようにして目が覚める。
吹き出る汗と涙と、忙しなく呼吸を繰り返す口からは胃酸味の唾液が零れた。

何度も目を覚ます。
耳を劈く暴言と、直後身体が鋭い熱と痛みをもって私の身体を壁に打ち付ける。
痛いのだと口にすることもなく、ただただ私はそれでも愛してるのだと錯覚し続けた。

後から知ったことだが、子どもは虐待してくる親に愛されようと、嫌わないのだそうだ。
私もそうだった。
名も身体も、細胞さえも血の繋がりから貰ったものであり、それ以外ではない。

私とは、親のものである。


そう、考え続けてきた。

それくらい私は年齢的に幼く、
また精神的に幼かった。

だから、ひどく大人びて見える君が
私にはとても眩しかったのだ。



春、親の言いつけ通りに地元の大学に進学した。親のレールは確かであり、私は卒業後親に金を払い、老後の面倒を見ることが決まっていた。

前日の雨でぐちゃぐちゃに茶色く潰れた桜の花弁は今朝の私の顔のようだった。誰も彼もが似たような仮面で門に吸い込まれていく。まるで葬式のようだ。


さわさわと心地いい春の風は生暖かく、額を流れる血は冷えて過ごしやすい。
人の少ないキャンパスを進んで、ふと窓に映る私は血なんか流していなかった。その代わり、汗とよれよれに伸びた今にも切れそうなイヤホンがぶらりと下がっている。

イヤホンは私の高校時代の初めてのバイト代で購入した。72,803円。初めて手にしたその大金は母親のサロン代に消えた。握り締めていた2000円で買ったのが今のイヤホンだ。
全て古着の服。化粧っ気のない顔。せめてと思って、母親のカミソリを使って剃った眉毛は剃りすぎて薄い。

何をしているのだろう、私は。

いや、考える必要はない。

私は提出の論文を持って前を向き直した。
今日から私は留守の多いおじさんの家に居候することになったのだ。自立、ではない。
親は秘密の恋人との逢瀬に自宅を使うタイプの人間で、私はそれに邪魔だった。

残っている食品は心もとないということで、夕方4時からのタイムセールに走らないといけない。私は赤字のチラシがポケットに入っているのを確認して少し早足になった。

親元を離れる、とは言え隣の町内である。
大した距離では決してない。少し高台から見れば、あのグレーの屋根が家だとすぐに指し示せる。私は嬉しいやら不安やら、恐怖やらがミキサーで強引に混ぜられた挽肉のような気持ちだった。押さえ付けていないと訳の分からない感情が溢れて飛び散ってしまいそうだ。

だから。



「美味しいかな?」
「あ、はい」

隣の部屋に住む男の子が大学生で、
ましてや同じ学年と学部の眩しい人と食事を共にするとは天地がひっくり返ってもあるとは思わなかったのである。

どうしてこうなったんだっけ、と思いながらあんかけチャーハンのあんが付いたスプーンを口に運ぶ。美味しい。いや、そうじゃない。

身体の大きさにそぐわない少し広めのワンルーム。私の部屋と間取りが同じならこのワンルームのいい所は洗面台と脱衣場がちゃんとあることだ。脱衣場があまりない部屋もあるのだとおじさんから聞いて少し驚いた。

「おかわりいる?」
「いります」

いや、だからそうではないのだ。
例え少し落ち着くルームフレグランスとか丁度いい室温とか美味しいあんかけチャーハンに冷たい麦茶が出てきて、存外その同級生、夏油傑が人当たりのいい人物だからと言って私は簡単に人の部屋にあがって寛ぐ人間性は持ち合わせていない。一応だけ保っている正座もそろそろ崩れそうだ。
私は崩れそうな正座を保とうと床に手をついて姿勢を直そうとした瞬間、手に激痛。
いった、という私の声に夏油くんは勢いよく私の手元を覗き込んだ。
見ればボロボロのイヤホンが私の手に食いこんでいて、どうやら下敷きにしてしまったらしい。その痛みで思い出した。
『恥ずかしいことをするなよ』
が彼の第一声だった。




特売の卵、鶏のささみ、ねぎ。
あまりスーパーに馴染みのない私が安い気がして買った品物を薄くて皺のついたトートバッグに入れる。正解の分からないものは不安だ。しかし、おじさんから月の食費は決められていた。超えなければセーフだろう。
スーパーの外は風が巡り回って、あちこちに舞う潰れた桜の花弁を巻き上げていた。冷たい温度でそれが足元にぶつかる。
どこか遠い人達の話し声。

私はイヤホンをさして歩き出したが、すぐに自転車がぶつかってきてイヤホンが勢いよく抜けて飛んでいく。
勢い余って私は前日の鏡に迷いなく突っ込んだ。冷たい水溜まりには茶色い桜の花弁が溜まっていた。

「おい!気をつけろよ、殺すぞ」
「やめなよー可哀想だって」

くすくす、上の人が底辺を覗く時によくする笑い方だ。
綺麗な自転車、綺麗な制服、綺麗な顔、綺麗な肌。なんでも持ってるのにどうして更に人は下を見ようとするのだろう。

私は途端に、黒く汚れたトートバッグを振り回していた。右手と膝がジンジンと熱い。それ以上に目頭が痛いくらいに熱い。
うわっ、と周りの人達は私を避けていく。
自転車はもうすぐに行ってしまった。
喉より食道より内臓より深くから溢れ出る叫びが私を止めない。

とにかくトートバッグを振り回して叫ぶ私の目の前に大きな背中が視界を埋めた。

はっとして周りを見渡すと、周りは私を笑いながらスマホのカメラを向けていた。


ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、びちゃびちゃ


ミキサーが床を叩きつけてまわる。
私が飛沫として汚く音を上げたところで仕方ないのに。

「あ、おい、何すんだよ!!」

ガチャン、と聞き覚えのある音に目を向けると、私よりずっと大きな背中を持った彼はカメラを向ける人達の手を振り払っているところだった。落ちるスマホをものともしない。

「恥ずかしいことをするなよ、状況も分からないとか頭沸いてるね」

彼の声は怒気を含んでいて、でもどこか底辺にいる私には寄り添うような声をしていた。その後ぐちゃぐちゃに汚れた汚い私を抱えて見慣れたアパートの、見慣れた部屋のお隣に連れてこられたのだ。

私がお隣さんで、更に言うと同級生で同じ大学の同じ学部だと知って私は世界がひっくり返ったのだが、彼はなんて事ないと言った。
大人っぽい、仮面のつけてない彼は私なんかよりずっと出来た人間だった。

初対面の私を風呂に入れて手当をし、薄汚れたトートバッグの中の救出出来た食材を使ってあんかけチャーハンまで作ってしまった。

眩しい春の夕日に細められた目はきらきらと輝いて、そのシルエットは揺れた。
初めて見た凪いだ海のように、彼は夏油傑と名乗って笑い、普通にお茶を零した。
困ったように、照れたような笑顔。

「ご馳走様でした」
「え?それだけ?」
「いや……結構食べましたけど……」

そうかい?と彼は5杯目のおかわりを小さなキッチンには相応しくない大きさの本格的な中華鍋からよそっていた。何合分作ったのか気にはなったが聞くのは躊躇われた。ただのお隣さん。ましてや私は助けてもらった身で、彼の失礼にあたってはいけないと強く感じた。故に足の感覚が無かろうと正座を続けていたのだが、ふいに彼の足が私の足に触れて小さな叫びを上げてしまった。
急いで口を塞ぐが、無かったことにはならない。謝ろう。とにかく謝罪しようと頭を下げるのと彼の大きな笑い声が上がるのは同時だった。

「苦手なんだ、正座。私も胡座が楽かな」
「あ、いや」
「胡座にすれば?それとももう足が痺れてそれも出来ない?」

それも的をえていた。
恥ずかしさやら申し訳なさ、情けなさで俯くと彼はごめんごめんと形だけの謝罪をしながら笑った。
よく笑う、あたたかい温度の人だ。

「実はね、井口さんから頼まれてたんだよ」
「井口……」
「君って井口さんの親戚の子だろ」

確かに。井口悠介は私のおじさんだ。

「井口さんがね、2週間前かな。親戚の子が来るから仲良くしてあげて欲しいって」
「それだけ、ですか」
「それだけって?」
「ここまでしてくれてる……」

その理由。
ここまで来て私は理由の不思議さに思い至った。何でを考えるより、とにかく彼の勢いが凄すぎて流されていた。そうだよ、理由。
私がここまでしてもらうなんて、きっと私は生まれてこの方ない。大きな、それこそ命くらいの対価を払っても不思議ではない。
右手と両膝が痛むし、足がとにかく痺れて動かないけどまずは土下座くらいしようと蠢くと鋭い痛みが額に大きな音と襲来した。
デコピン。
いや、それにしては痛すぎる。

「あ、ごめん。やりすぎたかも」
「え、え?痛い……」

痛すぎる。痛すぎて驚いてしまった。私の驚いた顔に彼もまた驚いて、近所の夕飯模様と音まで聞こえるくらいの一瞬の静寂。

そしてまた彼は弾けるような笑いをあげた。

「ごめんごめん。なんか君が変なことしそうだったから、つい」

つい、で頭蓋骨を割りそうなデコピンを繰り出す男子、夏油傑くん。

「理由、ね……私の名前呼んでみてくれるかい」
「……夏油傑くん」
「苗字か名前、どっちかで」
「夏油、くん」
「うん。なに?かなたさん」

ぶわり、鳥肌が、たつ。
違う。嫌悪感とかじゃなくて、
まるで自分の名前がちゃんと自分の名前のような感覚。ただの呼称でしかないのに、ちゃんと私が私であるように呼んでくれているように感じる。勿論それは錯覚なんだけども、それでも自分の名前が少しだけいい名前に聞こえてしまう。優しくて、温かい。蔑称では感じ得ない音の丸み。
冷たくて。でも温かい涙が溢れて溢れて私の顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。
すぐにその涙に嗚咽が追い付いて、呼吸が激しく乱れるけど夏油くんは何も言わない。
春の日差しに透けて舞う桜の花弁を想った。

いつまでも泣き止まない私に彼は何も言わずにティッシュ箱を差し出し、何枚も何枚も吸い込まれていく様子をあんかけチャーハンを食べ終えてどこから出したのか唐揚げを食べながら見ていた。



泣きすぎて逆に乾燥する顔でぼんやりしていると、彼は濡れタオルを渡してきてくれた。じんわり砂漠にしみる水。
私はもしかしたらずっとずっと前から泣きたかったのかもしれない。

「そういえばさっきの質問なんだけどね、君を助けた理由だよ」

はい、と答えたいのに声が出ない。
嗚咽に私の声帯を持っていかれてしまったみたいだ。

「私の大義、かな」

大義。
正義ではなく、道義を説く彼が優しくてやっぱり私はまた泣いてしまい、そのまま月は微笑んで星の笑い声が響いた。



それから私は彼から料理を教わったり、人への威嚇の仕方を教わったり、強制的に基礎体力も上げられた。毎日のランニングは正直辛くて、夏はかいた汗で汗疹も出来た。
秋にはおじさんが短い日数だが帰ってきて、3人で初めて居酒屋というものに行ってみた。
そこで掛かってきた親からの電話で初めて

「ばーか!私は私のしたいようにする!」

と電話を切って、着信を拒否した。
おじさんは頭を撫でてくれて、
傑くんは焼き鳥を1本くれた。



咲く花が変わりましたので、
生き方を変えてみるのもいいんじゃないかと、お隣に住む男の子に思わされたのです。

「かなたはかなただよ」

はい、その通りです。




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