約束





五条悟は女を見つめていた。真っ直ぐ、細くて白い腕を見つめていた。
その表情は母親の胎に感情を忘れてきたかのように“無”だった。
私はその様子を見つめながら、ただ虚空に漂い続けることしか出来ない。
ぼんやりと立ち尽くす悟に触れることも話し掛けることも許されない。
音も光も風も二酸化炭素さえ、私を通り過ぎる。それなら確かに、六眼に私が映っていなくても仕方の無いことなのだろう。

呆気のない出来事だった。

任務を終えた私は補助監督のいる車に戻ろうとしているところだった。帳をあげて、ものの数秒後のこと。歩道にトラックが突っ込んできた。避けることは出来た。しかしすぐ側にはゴムボールを持った子どもがいたのだ。救おうとした勇敢な行動とも言える。だが、ありていで言えば私の命は犠牲になったのだ。
ブレーキ知らずのトラックは信号も道も無視して突っ込み、私の身体を吹き飛ばしながらコンクリの壁に突っ込んだ。挟まれた私の身体はぐちゃりと潰れ、痛みもほぼなく絶命する。素早く、迅速に、静かに息絶えた。

走馬灯もない真っ暗な空間。初めて悟と出掛けたデートを思い出す。冬に2人で出掛けた映画のレイトショー。私たち2人以外にほとんど人はおらず、真っ暗で静かな映画館。
そんなことを思い出す余裕があることに驚いたが、実際私がそれを思い出したのは生きている時ではない。死んでからだ。潰れた私の身体と、結局死んでいた子どもの横をゴムボールが転がっているのを見た時だった。

産まれてくることに意味は無い。
そして、死ぬことにも意味は無いのだな。

まるで目眩のような感覚がした。
脳も耳もへったくれもないので、ただの錯覚だとはすぐに分かる。しかし、確かにぐらりと歪んだ視界。すぐに墨汁をぶちまけたかのように世界は真っ暗になった。

世界に光が差したように思えたのは、ポツンと入り込んだ白色だった。
光が当たってキラキラと輝く五条悟の毛髪。そしてその毛髪は濡れて彼の額や首元に張り付いている。

悟。

口は動いても、声は出ない。
悟はポツンと立ち尽くし、抜け落ちた表情はそのままだ。どういう感情なのか読み取れない。私は手を振ってみたり、肩を叩こうとしてみたりする。無意味。
悟は微動だにしない。抜け殻になった女の肉体をただ見つめている。

悟。

反応はない。何か伝える方法はないかと周囲を見渡して、はたと思う。
私は呪霊になるんだろうか。
どうなのかと思うが、有り得ない話ではない。私は呪力で死んだわけではないのだから。それなら、私はここで大人しく五条悟を見つめて消えるのが1番だろう。
この半透明の身体がもっと薄くなってしまえば、この思いも消えるのだろう。

共に過ごしてきた日々と、自然とこれからもずっと一緒に生きると信じてきた思いを。
泣き叫び、もがき、今この瞬間に悟に思いを告げられるなら何人だって殺してみせてもいいと思えるくらいのこの思いも。
知られずに消える。

「かなた」

悔しいのに涙も出ないこのガラクタのような魂が震えた。
聞きたかった悟の声だ。
悟の声は静かで、凪いでいる。
誕生日のケーキでも入っていそうな、この白い箱のような空間に悟の声は響いた。

「お前のこと、連れてくよ」

そう言って悟は思い切り女の抜け殻に噛み付いた。肉は硬そうで、新鮮そうな血も流れない。そんな明らかにヤバい肉を口に運ぶ。悟は何度も何度も嘔吐き、唾液なのか胃酸なのか冷や汗なのか涙なのか分からない液体がボタボタと床に落ちていく。
清潔そうな白い床は私たちの思いで汚れていく。汚れて汚れて、そのままあの日のシアターのように真っ黒になってくれよ。
そしてその真っ暗な世界の横で、あの日のように私の手を掴んでよ。

「……はは、ねえ、聞こえてんの?かなた」

何分、何十分、何時間、何日も経ったように思う。私に時間の感覚はない。
悟が目を血走らせながら、フラフラと首を赤べこのように揺らしている。
途中、何度も人は来たが悟が何の細工をしたのか扉が開くことは無い。
何度も悟の名前は外から呼ばれていたが、私の声のない呼び掛けの時のように反応はない。そうしているうちに私の身体は姿を消した。食道を通り、まだ胃にいる段階だろうか。悟は抜け殻の眠っていた台に上り、ごろりと仰向けで横になる。目が合った気がした。

「セックスするのはまた来世ね」

世界に広がる命の遺伝子。六道輪廻のその向こう側。当たり前のように五条悟の中で、人類の歴史は私に続いていた。
こうなってしまっては仕方がない。
愛していても、愛していなくても仕方がない。

胃を飛び出した私が小腸や大腸でいなくなってしまわないように。
胃酸に溶けない愛を残そう。

バイバイ悟、また来世。

愛の言葉ならそのとき聞かせて。






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